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あんこが会いに行くのを躊躇うの、まぁ取り敢えず行ってから考えようぜと思ってしまうが小5でそう思い切りよくはなれないよなぁとか、豆大が昔日を懐かしんでも別に涙ぐんだりはしないのもこの歳だとそういうものなんだろうなとか、キャラクターの振る舞いが本当に世代に跨る恋の姿を映していた。もち蔵も珍しくいい仕事。チョイが非常に馴致している一方で礼節は損なわないのがまた良い。
史織の参入でもそうだったが、各話間の人間関係の変位が時間の流れを意識させる様になっている。ここには地域コミュニティに根付いた日常であると同時に、時間に根差した日常がある。



奇妙なダイエットを遂げるデラ、学生体験のチョイ。
服、あるいは装い?



冒頭からカメラをやや回転させながらパンする恐ろしく気合の入ったカット。
尊敬すべき生真面目さ、また実る思い、散る思いに心揺らめく姿、初登場ながらチョイの機微が詰め込まれており最早商店街の一員といった感じ。人々を占う事の喜びや妃が見つからない=王子が結婚しない・ずっと滞在し続ける、という状況による日常の引力(つまり「転」の使者たるチョイだがむしろ現状維持こそ得策かもしれない)は一つの未来をも示唆しているが、はたしてチョイは何を選ぶか。



CM回と近い流れだが、今度は商店街に人が集まるという具体的な成果を得る。そう考えるとこれはたまこの回かもしれない。
酒を撒くというイカれた行動と「酒くさ」という実感の籠ったツッコミが何とも印象的。



唆されたもち蔵の行動に警戒を強めるみどり。
言い争いでの「……なに?」はややニュアンスが難しく感じたが、後の流れだとか「もち蔵だし?」のところで微妙に肩の力を緩める所作を見ると、もち蔵の低レベルのマウントに拍子抜けしたという感じなのだろう。たまこから決定的な言葉質を取ったみどりは「好きにすれば」といった様子。この力関係は告白に関してキョドるもち蔵を笑う場面で明白になる。
一方のもち蔵はまぁみどりの正論を喰らって冷静になったといったところなのだろうか。花火を観ながら改めてたまこを意識するもち蔵だが、冒頭と同じシチュエーションのラストでは意識した様子もなく(頬を染めていない)単に友達と言った絡みで終わる。
デラの干渉があっても物語が動き出すというよりはむしろ日常への回帰に収まる、というところか。



全体
とても良い


全体
とても良い


とても良い

冒頭、お祭りの主役だったときのあんこの思い出。しかし一方で現在はお祭りに浮かれた人々へ醒めた目を向ける。それと対比させられるのが恋だ。興味深いのが登校時に商店街の人々から何かと貰い受けるところで、これを意中の人に見られまいとするのはお祭りや商店街の人々との関わりをより大きな視点で、田舎っぽい振る舞いと認識して忌避している様に見える。生き方そのものとしての「都会vs田舎」の構図が組み込まれている、と読めるところだが、問題の意中の人が実はいかにも都会的なイケメンの方ではなかったというオチを考えると、これもメタレベルでのミスリードなのか、それともただの深読みか。
あんこが「昔は…」と呟くところが最も重要で、つまりあんこは単に興味が移ったという訳ではなく、自分が主役ではなくなってお祭りを楽しめなくなった、という心理があったのだ。
お祭に目配せしつつ博物館へも行く、両天秤の作戦は失敗に終わってしまうのだが、あんこはそこで他の子供に自分の「主役」の体験と同じものをプレゼントすることになる。ここに至って、あんこは地域コミュニティというものが単に自分自身のためではなく、そこに貢献する中で何かを受け継いでいく、そうした中で充足が得られる場所であると気付く。(やはりコミュニタリアニズムとリベラリズム(自由恋愛)という構図を思わせる。)いや「母」の役目を引き受けることで、多様な立ち位置、主役以外にも楽しめる役割があることを理解する、といった感じかもしれない。とにかくそうしてコミュニティへの愛着を回復する。
しかしそれでめでたしではない。それではかび臭い懐古的保守主義になってしまう。物語はそこで恋の側にきちんと報いるのだ。「別の道は別の花。新たな花が咲いている」
そして上述のオチによって対立は結局無化されてしまう。別に彼女はこんなテーマ性云々の為に生きているのでは決してないのだ。きちんと時代性を踏まえつつあんこの機微を描いていて素晴らしい回。



とても良い

前回とは違い冒頭から視線の先が明示されているのだが、では繊細で奥ゆかしい情緒が描かれていないか? と言うと全くそうではない。むしろその描写の厚みが故に「私もだよ」という一言が計り知れない重みを持つのだ。何と反応されるか分からないコミュニケーションの普遍的な不安、それを十分に共有したからこそ、この言葉に途轍もない愛を感じられる。
銭湯の場面、時々眼鏡だしやや近視なのか目を細めるたまこが珍しい表情で良い。



とても良い

バレンタインを軸に商店街の愉快な様子や、たまこともち蔵のいかにも幼馴染みな交流が描かれるが、やはり注目すべきはみどりだろう。
みどりが思いを抱えていること自体ははっきりと言葉でも語られる一方で、その対象については決して語られない。ただ映像によって、例えばCM撮影時にたまこの手のハートマーク→みどりの瞳が揺れている姿、ここでは見ているもの→見ている人というカットの流れのパターンにより辛うじてその対象が示唆されている。終盤のCM放映シーンでみどりが一人だけたまこへ視線を向ける場面、ここでようやく一画面で関係性が確認ができることとなる。そうして振り返ってみれば最初のたまこがハートを描いていることへの固い反応も納得され、また翌朝の言葉が詰まりがちなみどりも(メタ的に言ってしまえばここでこの二人が描かれること自体も)十分に解釈することが可能となる。第一話のデラの分かりやすい「意識し始める」場面とは対照的に、決してそれが記号的に、「それ」として描かれはしないのである。だがやはりこの回の中心はみどりなのだ。網の目の様な地域コミュニティの関係の中でむしろ燦然と輝く関係性を浮き彫りにしており見事と言う他ない。



年の瀬という珍しい時季から物語が始まる。
昔途中まで観たが記憶よりかなりフォトリアル調な背景だ。
作品タイトルの通り商店街という地域コミュニティに根付いたたまこの生活風景と、そして自意識としても「私はもち屋の娘だからね」とアイデンティティの拠り所となっているのが描かれる。その台詞にデラがときめいて? いるのはちょっと謎だが。「王子の妃を探す」使命を帯びて家系に奉仕する自らと重なる部分があったのか、それとも特に深い意味はないのか。



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