江戸に生きる葛飾北斎とその娘・お栄たち絵師の姿を通じて描かれた物語には、「見えざるものを見る、感じ取る」という迷信のような価値観が映し出されていた。
その「見えざるものを見る」というのは、浮世絵師として必要な素養であることもちろん、目の見えないお猶が触れて嗅いで聞いくことで物事を捉える様子にも映し出されていた。そういった大袈裟に言えば、彼らの生き方の根幹にあるものとして、「見えざるものを見る」ということ、それによって世界を拡張していくということがあった。
一方で、思い込みから妖怪の気配を感じ取ってしまう奥方の話も印象的なエピソードだった。お栄の描いた地獄の絵のある屋敷の奥方が、鳥の鳴き声や花の落ちる音を絵に描かれた亡者の悲鳴だと思い込み、妖怪を錯覚してしまった末に病に伏せてしまうという話であった。そして、最後に北斎が仏様を描き加えることで、その奥方は気を取り戻すのだが、その結末で含めて「見えざるもの」が種々の迷信や信仰を生み出す根源という江戸や中世特有の世界観に触れたようだった。
そして、最後に目の見えないお猶がは病気になって、逝ってしまう間際。唐突な風がお栄と北斎の家に吹き込んで来たことが示すのは、やはり目には見えない形で、お猶の死を告げるものであり、またお猶が最後に二人に会いに来たということのように映った。そういう意味で、「見えざるものを見る」というのは、極楽や地獄であろうとも、この世に生きる人々と繋がっているという世界観や人生観によって、今を生きる人の心を支えるものでもあるように感じた。
やはり「見えざるもの」で溢れていた江戸だったからこそ、その「見えざるもの」を見ようとすることによって、人々の生きる世界はより豊かに広がっているように思えた。また、安定した世の中だったとは言えど、現代と比べると先の覚束ない社会の中、見えないものに希望を託すことはその時代なりの生き方だったのかもしれない。そして、今は「見えざる」江戸を描いたこの作品も、数百年前という未知の世界への想像を膨らませるものであり、自分の世界観が拡張していくような趣深さがあった。