非常に難解奇異な物語で、最後の最後に何を言わんとしていたのかをようやく微かに理解することができたような…気がするといった作品だった。
私が出した結論としては、『パプリカ』というのは「夢の昇華のさせ方」を描いていたのだと思う。
一番分かりやすい表象が、粉川警部と彼が見ていた夢だったと思う。はじめ、粉川警部はある夢にうなされて、パプリカから治療を受けていた。その夢というのは、様々な映画の場面に飛び込むというもので、夢の最後の場面で粉川警部は夢の中のもう一人の自分自身を殺してしまい、中途半端なところで未完成に幕切れしてしまう。
まず、これは夢と現実の葛藤を示しているのだと思う。後に明らかになるように、粉川警部はまだ学生の17歳の頃、今は亡き友人と共に刑事と犯人が追う自主制作映画を撮っていた。そんな当時の粉川少年の夢は、間違いなく今のような刑事なんかではなく、映画監督のような映画の仕事だった。
そんな若かりし頃の夢と現在の現実の間に抱える葛藤。つまり、叶わなかった夢への後悔から目を逸らしたいという粉川警部の深層的な心が、映画の夢で自分自身を殺すという形で表象されていたのだと思う。そして、そんな葛藤が粉川警部にこの映画の悪夢を見せていたように見えていた。
しかし、物語の終盤で、粉川警部は例の中途半端に途切れた夢を完成させることができた。そして、今は亡き映画仲間の友人が、警部に向かって「嘘から出た真だ」と言い、かつて撮った映画の役の刑事に実際になったことを肯定してくれた。その二つを受けて、粉川警部もどこか救われたような気持ちを携えることができた。ここに『パプリカ』が描いた「夢の昇華のさせ方」があったように私は思う。
そんな粉川警部の「夢の昇華」を噛み砕いてみると、「夢と現実の反転」というのが見えてくる。粉川警部の最初の夢は映画の仕事であったが、後から現実の結果である刑事の仕事を私の夢だったのだとすり替えている。これを情けないと取るかは置いておいて、この「現実と夢の揺らぎ」が「夢の昇華のさせ方」の正体であるように思う。粉川警部の例のように、後悔をポジティブに変化させること自体は「夢の昇華」ではなく、あくまでも「夢と現実の反転」に付随するものに過ぎないのだと思う。
別の例を挙げると、千葉敦子とパプリカという存在のように、現実の人物の分身的なものとして夢の中の存在が写し出されているという描写がある。また別の例としては、クライマックスの場面で夢と現実の街が繋がってしまい、夢が現実を侵食しにくるという場面。
これらはまさに、「夢と現実のどちらが本当の実体なのか曖昧になってしまった揺らぎ」を描写しているように見えていた。そして、その「夢と現実の揺らぎ」は、夢という理想を掲げる自分と現在の現実の自分との間にあるギャップに対する葛藤を示しているのだと思う。
そして、その「揺らぎ」という葛藤を経て、粉川警部の例のように現実が夢となる。あるいは、なんとか丸く収まったこの物語の結末とは逆に、夢で現実を読み込もうとする理事長の企みが成功してしまったifのバッドエンドとして、夢が現実になるということもあり得るだろう。
ともかく、夢と現実のどちらが本物になるのかという葛藤をせめぎ合いの果てに、夢もしくは現実が本物となっていく過程と結果が、つまるところの「夢の昇華のさせ方」を意味していると私は結論付けた。結果がいかなるものだろうと構わないのだが、夢と現実の狭間でもがいた末に結果を出す様は、この『パプリカ』という物語のように実に劇的で人を惹き込むような人生であるのだろう。
それに、結果がいかなるものだろうと構わないと言ったが、別に夢も決して現実を蝕む悪いものばかりではない。悪役として描かれた理事長の台詞ではあるが、「非人間的な科学や現実から人間に残された人間的な聖域の部分、それをを守る隠れ家が夢である」というのは全くその通りだと思う。そして、夢に人間的な要素があるから、現実と夢を突き合わせて出力する時に、魅惑的な人生も生まれるのだと思う。
また、最後の最後に一つ付け加えるとすれば、一番最後の場面でパプリカが警部に勧めた「夢見る子供たち」という映画。あれも夢を抱き、これからの現実を生きていく子どもたちが人生をいかに生きて、いかに夢と現実をせめぎ合わせ、どんな人生を残すのかという含意を勝手ながら汲み取ったような気にさせられるものだった。