喜翆荘での時は少し遡って、夏のこと。緒花は豆じいの昔の業務日誌の中に、母・皐月のことを見つける。それは皐月もまた「私、輝きたいの!」と言っていたという、緒花の知らない母の姿だった。
当時の皐月は高校3年生という、まさにこれからどんな大人になっていくのかという、人生の中でも一番未来に満ち溢れている時期。そんな若さ故か、「こんな古臭い喜翆荘を飛び出して、東京の大学へ行きたい!私、輝きたいの!」と母、もとい女将に啖呵を切っていた。
そんな今の緒花以上に勢いと情熱にたぎっていた当時の皐月だけれど、冷静になってみれば、自分が具体的な夢もなくただ「輝きたい!」とのたまっているだけのバカバカしさも理解できていた。突っ走るにしても、どこへ向けて駆けていけばいいのか分からないような、そんな状態でもあった。
だけど、そんな皐月の姿でも「輝いている」と言ってくれた人もいた。喜翆荘に泊まっていたカメラマンの彼は「そうやってもがいている姿も輝いている」と言ってくれて、皐月もそんな彼がときめいて見えてしまったのか、突然としか言いようのない恋に落ちてしまう。
そんな皐月の恋は突然だけど、必然でもあったように思う。ただ輝きたいだけの自分に迷いを感じていた皐月にとって、彼の「もがいている姿も輝いている」という言葉は、「このままの道を進むことは決して間違ってはいない」というように聞こえていたのだと思う。だから、彼のことがそのまま皐月の夢の目指す場所にもなって、彼に恋をして、彼を追いかけて東京で編集者になりたいというカタチある夢の道を描くことができるようになっていった。
そんな母・皐月と在りし日の父のことが綴られた日誌を読んだ緒花。彼女が思うのは、「ママも最初から大人だったわけじゃない」ということ。それはすなわち「子どもの視点に映る大人」だけではない、等身大の母・皐月という人間だったように思う。
そして、緒花にとっては、今までずっと娘の自分のことを分かってくれないママだと思っていたけれど、その裏には大人なりの苦労や現実があるんだと知ることができた。そして、子どもの自分にはよくわからない仕事をしているママだけど、それだって今の自分と同じようにかつて夢見た末に掴んだ仕事なんだと見つめ直すことができた。
そんな母・皐月の本当の姿を知った緒花は、自分の夢の叶え方、自分が輝くための方法を母から教えられたようにも見えていた。今の緒花は孝ちゃんとの恋に迷い、自分の夢にも迷いを見せているけれど、それもこれも「大人になる」ために必要なステップ。そうやって、人生の酸いも甘いも知っていく中で、「自分の夢が何なのか」、「その夢の叶えるにはどうしたらいいのか」ということも分かってくる。
だから、今の緒花にできることは、ひたすらに「輝き」を求めて「ぼんぼること」。そして、それは菜子や民子にも同じこと。
菜子の子どもとして親に頼りたい自分と、親代わりに弟・妹の世話をする自分との間で、どうしたらいいかわからなくなってしまう姿なんかは、まさに子どもから大人へと変わりゆく境界の姿のように見えていた。
それに、民子が子ども向け・お年寄り向けの調理の工夫を見落として叱られてしまうけれど、それを教訓にして菜子の妹のためのお弁当を作っていた姿も、まさに経験あっての人生だと噛み締められるものだった。
そして、時系列は再び過去に戻って、皐月がお花の母になったばかりの頃。久しぶりに喜翆荘に帰って目にした母・スイの姿は、跳ねっ返りの高校生の頃とは違ったものとして見えていた。
そして、皐月は、喜翆荘という過去にしがみついてばかりだと思っていた子どもの頃の母親像は間違っていたと悟る。母もまた喜翆荘で女将という仕事を通して、未来や夢を追いかけているんだということを、皐月は自分も大人になって初めて気付くことができた。
そんな光景はまさに人生とは、ということを描き出していたように見えていた。高校生の皐月が夢と恋を追いかけて走る姿も、新米ママの皐月がお母さんに負けてられない!と小走りな姿も、現在の皐月のゴミ収集車を追いかけて走る日常の姿さえも、どれも同じ。その時々で理由は違うけれど、人生を走り続けていることに変わりはなくて、それこそが人生を輝くものにしていくのだという熱をもらえるようだった。