ついにクヌートが王気に目覚めた。
人が人を大切に思う心は差別だと言う神父の言葉が刺さった。確かにそうだ。個人的な愛は博愛ではない。遍く全ての人々を愛するのでなくては、真の愛とは言えないというのがキリスト教の核となる観念なのだろうけど、そこは仏教も同じだ。仏の慈悲は善人も悪人も全てに及ぶ。
クヌートは争いに明け暮れる者共の中に、引いては全ての人間の中に真の愛がないことを悟り、また自分も含め人間が真の愛を得られないことをも確信した(たとえば、人は肉親と同じように罪人を含む全ての他者を愛することができない)。それゆえに、自分が王となってたとえ得られなくとも人々が愛を求められる国を作ろうと思い立ったと。
歴史上大きな事績を残したクヌート王の心の決起をこのような精神性で描く手腕は見事。
トルフィンとアシェラッドは大丈夫かな。
トルケルが「本当の戦士とは何だ?」と問うたの意外だった。ただの戦闘バカかと思いきや、戦士の本質を求めようとしていたとは。それは死を持ってトールズが示したことだろう。真の戦士に剣は要らないと。おそらくトルケルはその境地に辿り着けないだろうけど、嬉々として人を殺しているようでは本当の戦士ではないということかと。残念ながらそれでは簡単に死んでしまう時代なのだけど、暴力の否定を目指す勇敢さを持つ者が真の戦士と言えるのかもしれない。
トルフィンはまだ私怨に囚われすぎているけど、憎しみつつもアシェラッドのこれまでの有能さなどを認めてもいたから、助けに来たのだろう。トールズの残した真意に気づいて覚醒する日が来てほしい。