『エイティシックス』の第1話で「これ要するにガンスリですよね?」と思ったので本家? を観ることにした。
この作品の重要な要素として、少女達に与えられた「義体」と「条件付け」がある。特に後者については公社の大人達が少女の自由意志について考える契機となり、彼等はどう向き合うべきなのか思い悩む。
ここには伊藤剛が指摘し、文化庁メディア芸術祭の評にもほぼそのまま引かれている様にキャラクターの人工性に対する批判的態度が読み取れる。(余談だがテキスト論的に言えば「読み取れる」とは単にそう解釈が可能という事であり、作者が意識したか否かとは一切関係ない。)
「美少女と銃」というモチーフ(斎藤環が寄ってきてファロスがどうのと言っても気にしてはいけない。ラカン信者の妄言である)の中でもガンスリは割とシンパよりオリジナルの部類だと思うが、「ブルーアーカイブ」の様な高度にアクセサリー化している銃と比べて何と重々しい事か。それは確かに血を流し人を殺す銃なのだが、ヘンリエッタは「役に立ちたい」と素朴な願望だけで引き金を引くのだ。その鮮烈な対比に「条件付け」の異常性が印象付けられる。
つまるところ公社は端から非倫理的であり、どう思い悩んでも言い逃れなどできない…と言いたくなりもするが、義体研究といういかにも金の掛かる課題にはそれなりに軌を逸した見返りが無ければそもそも取り組まれない可能性も高い。まぁ言っても仕方がないだろう。
「これは条件付けかもしれません」「それでも良いんです」本当に良いのかと言えば、我々は自由主義の下に生きているのだから当然良くはないのだ。彼女達は明らかに担当官に対して依存している。ただそれは生易しい関係ではなく、エルザのエピソードで端的に示されている様に狂気的ですらある。ここには人工性=都合のいいもの、という解釈を超えたテーマ性が示唆されている様に思う。彼女達は確かに他者として息づいている。
最終話、アンジェリカは星降る夜、マルコーとの絆を思い出し、歓喜の歌と共に眠る。それは確かに幸福だろうが、人間の一生とはそれで「十分」と言えるものだろうか? 否と言いたくなるのが現代の感覚であり、だからこそ切ない場面となるのだ。
いつ止まるとも知れぬ義体、消えゆく記憶、死を恐れぬ意志、全てがあまりにも刹那的だ。そしてそれは『風立ちぬ』(ジブリ)の様な敢えて選ばれたものではなく、そう差し向けられたものだ。それでも彼女達は歌うのだが、最終話のその場面に担当官が不在なる事を考えてみると、最初に触れた様な観点とは裏腹にこれは(少なくともアニメでは)あくまでも少女達の物語なのかもしれない。