誰かの為に行動したって其れが本当に誰かの為になるとは限らないし、そう行動しても自分が在らぬ事を被ったりもするから、だったら自分の為だけに身勝手に行動していった方がいっそ楽なのかもしれないのかも。でもそういう押し付けみたいな身勝手な行動が巡り巡って誰かに刺さったり動かしたりもするかもだから、彼是と考えに考えて尚も何も分からない事だらけの中で何も考えず想い感じる儘に動くというのは、分からない事だらけな今の朝には合ってるようにも思うし、其れの繰り返しと積み重ねの果てにきっと何者かになれるかもかも。
中学の(朝から見たら)クソ教師共や実里に槙生だったり色んな人の身勝手に揉まれて求める答えを得られず分からん事だらけの朝だったけど、尚も全ては分からない中で徐々に何か分かりつつあって身勝手さが増していったという点では色んな意味で朝も人間らしくなってきたのかなとは思う。同様に槙生も自分なりに実里の事を分かりつつは在るようだから、受動的にも能動的にも何もしなければ何も生まず育たないという事なのかも。其の意味では身勝手な動機でも校内ライブをやったからこそ朝の中の砂漠に水を生んで人をよびよせられて、何かある特別な自分に近付けたんだろうと思う。
正直此の作品の全てを理解しきれてる自信は無いし浅はかな事しか語れないけど、劇中人物同様に全てを理解出来る事は無いかもだけど、でも自分とは何か、他人の為に動く事の善悪とは何なのか、如何分からない事と向き合い理解しようとするのか、主語デカめで言うならそんな人類普遍の課題に向き合い続けた一作だったかなと感じるところである。