縦糸は流れ行く月日。横糸は人のなりわい。
人里離れた土地に住み、ヒビオルと呼ばれる布に日々の出来事を織り込みながら静かに暮らすイオルフの民。
10代半ばで外見の成長が止まり数百年の寿命を持つ彼らは、“別れの一族”と呼ばれ、生ける伝説とされていた。
両親のいないイオルフの少女マキアは、仲間に囲まれた穏やかな日々を過ごしながらも、どこかで“ひとりぼっち”を感じていた。
そんな彼らの日々は、一瞬で崩れ去る。イオルフの長寿の血を求め、レナトと呼ばれる古の獣に跨りメザーテ軍が攻め込んできたのだ。絶望と混乱の中、
イオルフ一番の美女レイリアはメザーテに連れさられ、マキアが密かに想いを寄せる少年クリムは行方不明に。マキアはなんとか逃げ出したが、仲間も帰る場所も失ってしまう……。
虚ろな心で暗い森をさまようマキア。そこで呼び寄せられるように出会ったのは、親を亡くしたばかりの“ひとりぼっち”の赤ん坊だった。
少年へと成長していくエリアル。時が経っても少女のままのマキア。同じ季節に、異なる時の流れ。変化する時代の中で、色合いを変えていく二人の絆――。
ひとりぼっちがひとりぼっちと出会い紡ぎ出される、かけがえのない時間の物語。
「別れの一族」という言葉だけで大まかなストーリーは想像できてしまう。
それでも最後まで目が離せなかったのは、その一つひとつが丁寧に描かれていたからだ。
初めてママと呼んだ日、お母さんと呼んだ日、お母さんを紡いだ日、母と呼ばなくなった日、母を否定した日、母を守ると誓った日、父親になると誓った日、自分の家族を守ると誓った日、そしてまた母さんと呼んだ日――。
その全てが繊細に表現されていて、呼び方の変化が「二人の関係の節目」を象徴していた。観ている自分も自然とマキアとエリアル、母と子の視点を行き来してしまい、涙が止まらなくなる。
「母親になるとはどういうことか」
「子どもが大人になるとはどういうことか」
奇抜な設定で誇張するのではなく、ひたすら人間らしい営みとして描いていた。だからこそファンタジーでありながら、驚くほどリアルに胸に刺さる。
レイリアがあの瞬間に抱きしめなかったのは、愛していないからではなく、むしろその逆。抱きしめてしまえば娘を自分の世界に縛ってしまう。だからこそ、最後まで「母親としての衝動」を押し殺し、距離を取ったのだと思う。残酷だけれど、それは「娘を自由に生かすための愛情表現」だったのかもしれない。
――抱きしめなかったからこそ、あの別れは痛烈に「母の愛」として観る者に刻まれる。
そして、最後にさよならの朝が来る。
別れの一族と聞いた時から想像していたシーンだが、片時も目が離せなかった。
その後、長老が無事だったとわかる。
まだ戻る国がある。そう思えるだけで少し救われた。
◇作品No.93/◆鑑賞No.129
<評価:SS/非常におもしろい>
<オススメ、ミテホシイ度:5/個人的神~。すっごい見て欲しい。>
**物語ひとこと紹介**
〝私はエリアルを愛して良かったと思います。愛して良かったと。〟ばぁああああ(((涙となる物語。
主題歌も相まって泣きゲー的な作品に感じた
岡田麿里作品は新海誠作品とはまた違ったエグみがあるけど、そこも含めてできる話かもな、という気もする
人が人として生きるということ、人が親になるということ、別れを見守ることと紡いでいくこと
作品全体を通して生命の営みを慈しみ、同時に神秘を愛する静謐さが両立しているように思った
見終えてすぐの今はどういう評価を下すのが適切なのか計りかねるけど、それでも率直に「観てよかった」と思える作品だった
涙がちょちょぎれた
満点
評価 SSSS 95点
dアニメに来てたから見た。母親の愛情がでかい。めちゃくちゃ感動する。長命種族とただの人の親子関係の移ろいがどこか無情と温かさのコントラストが効いていていい。ラストもただのハッピーエンドじゃなくてグッド‼
愛には二つの種類があると思う。一つは純粋な真っ直ぐな愛、もう一つは嫉妬のような拗れた愛。
これは、そんな愛を確かめるための物語。
時間という経糸と人の生業という緯糸からヒビオルを織るイオルフ。彼らは別れの一族と呼ばれる。長命の彼らが一族の村を飛び出してしまえば、そこにはたくさんの別れが待っている。なぜなら、多くの人からそれは異端と排斥され、あるいはたとえ愛してくれる人がいても私たちよりずっと早く旅立ってしまうから。
「誰も愛してはいけない。愛すれば本当の一人になってしまう」
そして、長くて短い数奇な運命が幕を上げる。
イオルフの一族のマキア、彼女は孤独だった。村を破壊され、拠り所もなく。そんな中で、彼女は自分と同じように母を失った孤独な赤ちゃんを見つける。一人ぼっち同士の出会い。その子・エリアルは、マキアにとっての「ヒビオル」。その子によって、たった十五の少女は「母」となった。
そして、いつまでも老いることのない母に対して、みるみる大きく育つ息子。マキアはそんなエリアルがだんだん大きくなる姿を見て、「このままずぅーっと大きくならなければいいのに…」とつい思ってしまう。だけど、エリアルは「ヤダ!おっきくならないと、母さん守れないもん!」と応える。その時、マキアの目に滲む涙の色は何色をしていたのだろうか。エリアルが大人になっていくことを止められない寂しさの深い藍なのか。それとも、愛した分だけ愛が返ってきてくれたことへの喜びの淡い水色なのだろうか。ただ、その頬を伝うものの正体が愛であることは確かなことである。
だから、独り立ちしていく一人息子を、いつまでも小さな子どものように扱ってしまう。そうしないと変わりゆく息子の背中に寂しさを募らせてしまうから。そうして、いつまでも息子というのは息子であり、変わることのない無際限の寵愛を注ぎ続けられるのだ。
一方で、息子・エリアルの想いは母のような真っすぐなものではあり続けられなかった。母の愛を受けた身体と心はどんどんと大人になっていく。変わり続けるエリアルは次第に母からの無償の愛を真正面から受け止めきれなくなって、はねつけてしまう。彼はもうマキアを「母さん」とは呼ばない。
それどころか、マキアが実母ではないことと、幼い頃から変わらない美しい母親の姿がさらなる捻れをもたらす。きっとエリアルはもうマキアをただの母として直視できなくなっていた。彼女との間に血の繋がりがないと知った時、どうしてマキアは自分のことをこんなにも愛してくれるのか、マキアの愛をどう解釈したらいいのか分からない。
その真意ははっきりとは描かれない。しかし、「俺はあなたのことを母親だなんて思ってないから」という言葉に秘められたエリアルの心中は、マキアを母という存在を超え、一人の女性として愛してしまいそうになっていたように映る。そして、だからこそ、エリアルはマキアの許を巣立つのだ。母を母のまま愛し続けるため。
そして、彼は父親となり、妻のディタや住み着いたメザーテの街といった新しい場所に愛の拠り所を見出していくのだ。
そんな母子の別れの裏で、マキアが攫われてしまう。その犯人は同じイオルフのグリム。彼は「ヨルフの一族同士、一緒じゃなきゃダメなんだ」と言う。「人々に裏切られ、別れを突きつけられ続ける僕たち、イオルフは共に居なければいけない」と。だがしかし、そのグリムの愛そのものが、マキアにとっての「孤独ではなかった」過去、エリアルたちとの幸せな日々を否定するものであるのだ。
強引に囚われた果てに望まない妊娠をさせられたレイリアを救出しようとした先でも、また彼は突きつけられる。確かにレイリアにとって、娘は望んで産んだ子というわけではない。でも、今は愛おしくて仕方のない最愛の存在なのだ。
イオルフの村にいた頃からずっと愛していたものが、今は自分を愛してくれないこと。それをグリムは受け入れられなかった。果てしない長命を生きるイオルフにとって、変わることのない愛が変わることを理解できなかった。
しかし、変わらない中にも変わるものがあるのだ。グリムが幼い見た目のままにその心も変わらなかった一方で、マキアとレイリアは外の世界で出会った者を愛し、それと共に彼女たち自身も少しずつ変わっていったのだ。
別にどれが良いとか悪いというわけではない。糸だから、真っ直ぐなものもあれば、時には捩れたようなものもある。すれ違う愛というのも、別に哀しいことではない。そういった糸が機織り機の上で重なり合い、時にすれ違い、でも結局は一つの布に織り上げられていく。それがヒビオルであり、人生となる。
産気づいたディタを見つけて助けるマキアがそうだ。エリアルが自分に代わって新たに愛したディタとその子のことを、マキアはエリアルと同じように愛する。そして、産まれた子を見て、マキアはエリアルと出会った日のことを思い出す。これこそが連綿と編まれる「私のヒビオル」なのだ。
そして、エリアルと再会したマキアが言う。「誰かを愛するという気持ちあなたが教えてくれた。そして、私と一緒に生きてくれるから、苦しいことも辛いことも和らいでいく。そうやって、あなた自身が私のヒビオルになって、エリアルのことを思い出せば、私も自分のことを思い出せる。そうやって今の私を織り上げてくれたのはエリアルだから。」
マキアは本当の意味でエリアルの母親にはなれなかったかもしれない。だけど、エリアルと一緒に過ごして共に同じ感情を共有してきた時間が、まさに母子のように、いやそれ以上に一体だったのだ。そして、その中で育まれた絆がいつだって心の中でマキアに勇気をくれて、守っていてくれた。「あなたに愛されている私」というアイデンティティを教えてくれたのだ。だから、マキアはエリアルの新たなる幸せを願って、彼の妻と娘が待つ新たな居場所へと送り出す。
愛すれば愛する程に、その人の幸せを願って別れなければいけない時が来る。だけど、それは哀しいことではないのだ。なぜなら、愛にはカタチがないから。たとえ別れようとも、その心に織り込まれた愛は生き続けるから大丈夫。
だから、愛とはすべて丸ごと愛することなんだと思う。それは私を愛してくれるあなたのこともそうだし、私ではない誰かを愛したあなたという存在も引っくるめて、あなたのことを愛していることなんだと思う。だから、愛し合って同じ道を生きてきたけれど、途中で道を分かたなければいけない時も笑顔で送り出せる。
また、愛することというのは、愛した相手によって形作られた自分自身を愛することにもなるのだと思う。どうしようもなく忘れられない愛の想いが、愛したあなたという存在を私の中で生かし続ける。だから、一人でもあなたと共に苦楽を共に分かち合える、本当の意味で一人ぼっちじゃなくなるのだ。
そして、何よりも他の誰よりも長く生きて、他の誰よりも愛した者に別れを告げられなければならないヨルフの一族だからこそ、この深遠なる愛の形に出会えたのだと思う。
だから、この最後の場面が待っている。あれから何十年の時が経ったある日、相変わらず幼い少女の見た目をしたマキアはエリアルの許を訪れる。もう彼はすっかり老いて衰弱しきっていた。わかっていたけれど、マキアはやっぱり母としてずっと一緒にいてあげたかった。だから、もう老いて旅立つエリアルの姿が悲しくて、苦しい。でも、たとえあなたがいつかこの世から旅立つ日が来ても、私が生きている限りあなたのヒビオルは続くことを彼女は知っている。
時の流れの中で出会っては別れることを繰り返しながら織り上げられるヒビオル。その別れの先には新たな出会いが待っている。顔を上げれば、そこにはマキアが助産したエリアルとディタの娘がいて、すっかり母親になっている。そして、そのまた娘も村を駆け回り、無邪気にマキアに話しかけてくれる。この全部、全部をエリアルとの出会いがくれたのだ。
かつてヨルフの村で長老は言った。「誰も愛してはいけない。愛すれば本当の一人になってしまう」と。だけど、この苦しいだけじゃない別れに、マキアはエリアルを愛して良かったと思えた。愛したことで人生が、世界が広がった。そして、愛と別れを経験する中で生まれた新しい出会いがさらなる愛を繋げていくのだ。
別れの涙が空へと舞い散る中、彼女は再び歩き出す。笑顔で新たな出会いと愛を求めて。
2023/2/28 5周年記念上映 at 新宿ピカデリー シアター1にて初鑑賞
極度の疲労の中行ったので寝ないか心配だったけど、そんな暇一切なく大号泣。
いつ見ようか迷っていたけど、再上映にて大スクリーンの迫力ある音響で観られて良かった。
P.A.WORKS、水の描写だけじゃなくて空(雲)の描写も本当に素晴らしい。
5周年記念上映@イオンシネマ海老名7番THXにて2度目の映画館での鑑賞。
このシーン明らかに泣かしに来てるよな〜というカットがいくつかあると思うのだけれど、わかってても涙がボロボロ流れてしまう、良い作品だった。
お母さんって呼べたじゃねえか…
岡田麿里脚本のエグさ(と呼んで良いのか)は継続して摂取するとちょっとウッってなることもあるけど、映画1本で見るのは丁度良くエグさを摂取出来て良いのかなぁなどと思った。
5周年記念の劇場上映を鑑賞。
圧倒的な「母になる」ということ。「母である」ということ。親は子のために何をしてやれるのか。たぶん、この映画は観た人の立場によって大きく感想が変わるタイプの話だと思う。人の親になったことのある人であれば平常心で観られないであろうシーンがかなりあった。
岡田麿里さんの作品をちゃんと観たのはこれが初めてなんだけど、予想以上に生々しい作風、感情をえぐるタイプの物語だなという印象。作家性が強い。個人的にはあまりクリエイターの性別と作風を結びつけたくはないんだけど、今作は特に「母親」を経験した者だけが辿り着ける境地のようなものもあったような気がする。子供を産み育てるという、人類の半分が経験しようのない境地をある種疑似体験させてくれる作品でもあった。本作には実にいろいろな「母親の在り方」が登場する。マキア、レイリア、ミド、ディタ。このうちマキア自身は出産を経験していないこともあり、より普遍的な描き方になっているように思う。レイリアやディタをめぐる描写は結構生々しくてちょっとぎょっとするところもあったけど、きっとそこに「母親のリアル」があるのだろう。
そして母親になったことのない、なりようのない人間であっても、確実にわかることはある。誰だって、母親から生まれているからだ。自分の母親に対する感情は人によって千差万別だろうけど、彼女が感じていたかも知れない感情をこの映画から想像することはできるし、エリアルの苦悩も感じ取ることができる。やはり「父と子」とはどこか違う関係性を感じる。
「母親性」と並行して、イオルフの長寿という設定がまた心をえぐる。イオルフは何も変わらないのに、時は過ぎ、エリアルたち人間はいつしか勝手に大きくなり、いつか親から離れて彼らの人生を歩んでいき、さらに次の世代に何かを伝えていく。永遠なんてものはなくて、いつか別れの日が来る。それでも親は子にとってちゃんと親であれたのだろうか。子は親の人生に何かを与えることができたのだろうか。たぶんお互いに自問し続けるのだと思う。
登場人物の行動原理がかなり感情ドリブン(しかもわりとドロドロした重い感情)なので、プロット全体としては気になる部分もあった。これは自分がキャラより物語構造のほうが気になってしまいがちなせいもあるかもしれない。ただ、その分、キャラの声にならない叫びや慟哭のようなものが強い力で物語をドライブしているのが感じられた。また音楽と美術が本当に美しかったので、大画面で観て良かったと思う。
映像も素晴らしく、親子愛について色々と考えさせられました。
惜しむらくは5年後、10年後にこの作品のタイトル名を思い出せるか自信がないです。