なんというか、ものすごい作品だった うまく言いたいこととかまとまらないんだけど、まず音楽がとても良かった。劇伴が本当に光ってて、音の重ね方とかメロディーの用い方とかが極めてクレバーな良い音楽になっててすごくよかった
この作品は、デスゲームがあり、その内部にキャラクターがあり、そして生死のやり取りが行われるという構造になっている。デスゲームの外部へは、そのデスゲームが終了した後にいける場所であり、途中でゲームを放棄することはできない。これは、何かに似ている。そう、まるで「生」というものを1度開始したらその外部へは「生」が終了しない限り行くことができない「現実世界」に。
デスゲームとは現実(資本主義経済社会)の縮図である。そのゲームにおいてプレイヤー、つまり「生」を受けたキャラクターは、そのゲームが終了したとみなされるまで、「生存」することを求められる。しかし、そのゲームには、こちらには姿を見せない様々な仕掛けやトラップがあり、それらを読み取れなければ死んでしまうし、プレイヤー同士の殺し合いだってあることもある。1話で幽鬼は最後のシーンで金子を殺したし、逆説的に、そのゲームにおいて生存しているキャラクターは必然的にどこかで、何かしら、その殺しに意思があったか否かを問わず他者の死に関わっていることになる。「生とはそこには死が付きまとっている」のだ。
カレン・バラッドは「存在するというのは、そこには常に排除が行われているということである」といった趣旨のことを述べている(『宇宙の途上で出会う』に対する弊の個人的解釈)が、私たちが存在することはそれはすでに構成的排除と不可分であることを意味する。私たちは資本主義経済社会という、「外部」を想像することすらできないような強烈なリアリティに「生」をすべて握られているし、存在とは排除と一体であり、それらの舞台から降りることはつまり「死」を選択すること以外に存在し得ない。もちろんデスゲームには最初から参加しないという選択肢が存在するし、その外部だって存在する。しかしそうではなくて、その自身の存在と他者の死が不可分なゲーム内で、どう「生」をすることができるのだろうか。
幽鬼は自身をなんとなくでさまよっているような、幽霊であると表現した。そして同時に何かしらの意志を持って生きる他者が羨ましかったとも言った。そうした沢山の死んだあるいはこのデスゲームに参加していた他者とのシーンを経て、最終話で幽鬼は「生きる」ことを選択する。幽鬼は諸悪の根源であるデスゲームの主催者そのものを革命することへは向かわないし、あるいは絶望で自死を選択することもしない。だからといって利他的かつロマン主義的な自己犠牲や愛を説くものでもないし、幽鬼の結論は「生きることを生きる」というものに近い。必要になったら殺しだってする。言ってしまえば極めてドライな生存戦略である。しかしそのきっかけとしての「師匠の99回を自分がやる」という部分や、金子をおぶっていた部分に注目したい。
「私」が「生=存在」しているということは、それは「私以外」を「死=排除」することである。デスゲームに外側はない。それらからは決して逃れられないし、外部は存在しない一方で、「私以外」から渡された肯定的なバトンによって「生」をするということ、また、できる限り「排除を排除する」こともまたあるのではないだろうか。自身の生を諦めないが、同時に他者の生もまたできるだけ諦めない。それがこの作品の提示したかったものなのではないかと、弊は思う。
しかし、そうやって懸命に生きているキャラクターによる物語を、モニターを通じて眺め、消費している漏れたちは、いったい何なのだろうか?