公安局を襲撃する梓澤、彼の行動の本質は分岐点を作ることだと言う。彼自身は何も手を下さない。ただターゲットたちが置かれた状況の中で、いかにシビュラ的になって生き残るのか。それをほんの試すことだけが、梓澤の成していること。敷かれた道を行くだけの者は早々と死に絶え、己の道を求める者だけが、シビュラ社会の中で存在を確立できる。そういう意味では、全ての起点であり、全てと関わらざる梓澤こそが最も己の道を行くシビュラからも自由な存在なように映っていた。だから、彼はシビュラシステムにはなれなかったのかもしれない。
分析官の言葉が印象的だった。今までずっと安全圏からサポートをすてきて、心のどこかで現場に出たいと思っていた。一方で、犯罪計数が下がっているという話、だけど、いざ外に出ると思うと怖くなってしまう。結局、私は臆病だった。でも、ここで自分の命を懸けて、前線でみんなを助けられたら変われる気がする。堂々と外に出て、自分で選択した人生の中で生きることがきっとできる。まさに、自分の意思で直接道を選び取る生き方の自由さと、そしてそこに求められる勇気の象徴を表す分析官の決意だった。
シビュラシステムとビフロストの対決、結局、軍配が上がったのはシビュラシステムの方だった。また、それは同時にゲームの勝ち負けという二者択一の価値観ではなく、善悪という多面的で多様な価値観の勝利でもあった。
だから、梓澤はシビュラシステムに拒否された。最も正しくありたい、この世で最も崇高な神になりたいと願った彼のその理想はあっさりと残酷にNoを突き付けられた。彼は神が優れているから、自分自身もそうなりたいと願った。そして、自らの能力の優秀さを示そうとした。だが、それ自体が間違いであった。正負の二分法の価値観で存在を測り、二者択一の道という独善的な梓澤のやり方は、シビュラシステムの価値観とは真っ向から対するものだった。
シビュラシステムが真に求めるのは、正負を超越した多面的な判断の価値観であり、それはまた慎導であった。彼が免罪体質であることはもちろんその要件であるが、それと同時に犯罪者を梓澤すら殺さずに償わせるというその価値観こそがシビュラシステムに求められる理由だったようにも映る。自分自身の価値観で正義を切り拓く、その生き方こそが正義に適うと。価値観を自ら規定しようということこそが正しい価値観となるといったように。
そして、彼はまたシビュラシステムの一部となる資格を持ちながら、そうなることを拒否もした。なぜなら、シビュラシステムとしてではなく、慎導灼として正義を規定し、正義を執行するためだから。そんな風に彼の姿は見えていた。