今度は犬王コンテンポラリーダンスに。まぁ…それはもういいか。鬼夜叉が演じる自然居士は、犬王の舞は犬王にしか出来ないものであり、そこには自分がたどり着けないし、この舞は犬王が死んだら終わってしまう。だが未来に発展していく猿楽を残したい、足も痛むのでうまく舞うこともできない、だから自分らしさを含む無駄を削ぎ落とすことで無心になり、未来へも残せるようにする、という論理で構成されたらしい。しかし、ゆっくりであるとか、間が長いといった現代能に通ずる特色は、削ぎ落とすという行為の延長線上にはあるかもしれないが、自分を削ぎ落とすというところまで重ねるものなのかは正直非常に疑わしく感じる。作劇上、(前回の)初心、花、無心、伝承を1つのテーマとして成長に重ねようとしたのだとは思うが、実際の世阿弥の思想を雑にまとめてしまっているようにも感じる。初心は微妙に違う意味のように見えるし、花、無心は自分を削ぎ落とすわけではなさそう。伝承は型、師弟関係、文書として残しつつ新たな変化を受け入れる形のように聞こえ、かなりの差異を感じる。
自然居士は1話で鬼夜叉が少女役で演じていたものだが、正直なところ1話の時点で既に現代能に近い動きの少なさ、間の長さに感じており、鬼夜叉がつけた変化というのが演出上のエフェクト以外で読み取ることが難しい。能の映像表現としては良いものだが、義満や犬王がこれに新たな素晴らしさを見出し感動する描写は映像で語る物語としてあまり納得感がなかった。
鬼夜叉はまだ成長期の10代前半だと思うが、ここまでは長く猿楽の洗練、能への変遷が描かれてこなかった。だが、ここに来て急に世阿弥の生涯をかけたテーマを雑にぶち込んで来た感じがして、それはそれで無理を感じる。確かに、卒塔婆小町や汐汲で1人で演ずる猿楽から夢幻能のような要素や、幽玄、花のような要素の欠片が見える構成にはなってはいるが…それは演目がそう並んでいるだけで、鬼夜叉の行動や気づきとあまり結びついていないように感じてしまう。少なくとも、かなり分かりづらい。やはり、14くらいまでの物語で世阿弥の能の要素をぶち込むのが無理があるのだろう。もっと長くやるつもりが打ち切りだったのかな。そもそも原作からアニメでかなり改変しているから、アニメ制作の料理として無理があったという話かもしれない。
うまく出来ているかは別にして、一応世阿弥の能に正面から向き合ったという意味でこの回は良いとしておく。