少し前に本作が劇場でかかるからTV版を観直した上で観に行って、どちらもいろいろと今観て思うところがあったから感想を書こうと思ってたのに延び延びにしてる間に気持ちを忘れちゃったので配信でもう一度観直し。
幾原監督作は人の身体の動きのしなやかさとか美しさが特に好きなのだけど、テレビ版は今観るとそういうイメージから思うより動いている部分が少なくて画面が静かて印象を持ちました。放送当時の一般的なテレビのサイズとか画質を考慮してあったのかも。劇場版の方は美術の設定とか画面の構成とかやっぱり大画面のスクリーンを少し離れた位置から観るていう映画館での鑑賞に最適化されている気がして、構造物のスケールの大きさと色彩、舞い散る花びらの量、顔がクローズアップになった時の構図が特に印象的でした。
男にペディキュアを塗らせる女、とても良い…。作中で冬芽と会話するのは枝織、ウテナ、アンシー、暁生。暁生は冬芽と同じく既に死んでいるので死者同士の会話。他に枝織に思いを寄せる樹璃だけは枝織から聞いたのか冬芽の存在に言及する。ウテナと冬芽が一緒に描かれるシーンにはかならず併せて水の描写がある。冬芽に思いを残しているウテナと枝織のふたりはそれぞれ別々に自分が望む冬芽の幻を見ているように思える。アンシーに冬芽が見えている理由はよくわからない。枝織はボートから落ちたウテナを助けようとして冬芽が死んだと言って、ウテナの回想では冬芽が助けた子は枝織に見える容姿で、ふたりの話が食い違ってる。ウテナカーに乗ったアンシーを追いかけてくるのが枝織カーなのは冬芽の死を受け入れてアンシーを選んだウテナと未だに冬芽を求める枝織が戦ったのね。
水が溢れる薔薇園でウテナとアンシーが踊るシーンで水面に映るウテナだけ長髪になって、挿入歌の歌詞が「二人は今もう一度出会う」て歌ってるのはこの話がテレビ版のエンディングの続きであることを示唆しているように思える。このシーンの最後には水面の鏡像のウテナが主になって終わる。ウテナが冬芽とした星を見る約束の心残りをアンシーがウテナに満点の星を見せて解消したことが以降の展開の切っ掛けになってるのか。
テレビ版の鳳学園は暁生が薔薇の門を穿てる剣を心に宿した者を探すために作り上げた時間が進まない世界だそうなのだけど、映画の中では暁生は既に死んでいてアンシーを学園に捉えているのが誰なのかよくわからない。この作品の中の出来事はすべてアンシーの心象風景の表現なのかもしれないとも考えてみたのだけど、それは極端に過ぎる気もする。
以前に一度観たときはミッチーの暁生に慣れないなと思ったのだけど、今観るとテレビ版との暁生の違いを印象付けるのに良かったかも。音響効果も音楽も劇場の音響で聴いたから感じられることが多かったから劇場で観る機会を持てて良かったけど、今観てもやっぱり難しいな…。