自分自身がバンド経験があるというのもあり、多少懐疑的・穿った(捻くれた)目線も入りながら周りの賞賛もなんとも受け容れがたくこれまでの話数を見てきて、この最終話に辿り着いた。この最終話がこの世に生まれたという点で、このアニメは偉大な功績を残したという評価に一気に覆った。
忘れてやらない
文化祭感〜普段学校で見ている友達たちがヒーローに見えて輝いて別人に見える非日常的・特別な世界(時空間)〜をモブ達や動かない日常の風景を挟んで描写しているのにグッときた。
楽曲も文化祭映えを意識して調整されたと聞くが、本当に見事にハマりきっている。イントロの参照元はNUMBER GIRL-透明少女なのは言わずもがなで、そういった楽曲制作班による"フェスソングを描ききるための意匠"と作画制作班との綿密な双方向的コミュニケーションの上で完成されたフェスソング〜フェス描写としての拘りの深さを感じた。
星座になれたら
彼女らの関係と歌詞の相関性を話すについては既に多数論じられていると思うので割愛。個人的にはアニメと言う時間軸芸術の特性を活かしたタイムストレッチ感……ぼっち主観の体感速度の変化の描写が見事だった。「トラブルが生じても"曲(時間軸芸術)はリニアに進み続ける"と言う生々しい緊迫感」と「それを乗り越え切った瞬間の体感時間が"止まる"、一種のゾーンに入った状態の息遣いにフォーカスした描写」があまりにも見事。「実際に人前で何かを披露してゾーンに入った原体験がある人間」には非常に刺さる描写だったと思う。
あと楽曲の参照元は明らかにthe band apart的でしたね。ベースの節回しやフィルインのハイハットの捌き方、Bメロリードギターのスウィープフレーズとか特に。思わずニヤリとしました。
ラストシークエンス
このラスト4分間のためにこのアニメを見る価値があったと言っても過言ではない。と思った。
アニメ一期全体の作品内演出に限って言えば、「文化祭を終えギターを新調し、何か革命的なことがあると言われたら別にそうでもなく、緩やかにまた彼女の生活がほんの少しだけ良くなりつつ生活は続いていく・進んでいく」という、変わらず卑屈でありながらも少しだけ前を向いている絶妙な塩梅の描写が素晴らしい。"まだ動いてない街""動き出す前の街"の映像がラストサビ前に挿入され、曲の最後に歩くぼっち(動き出すぼっち)のカットで終わるという対照的な演出がそれを象徴しており(月並みな手法ではあるかもしれないが)ピッタリとハマりきった見事な演出だと感動した。
楽曲について言えば、「転がる岩、君に朝が降る」の歌詞に織り込まれたASIAN KANG-FU GENERATION・後藤正文のリリシズムによる「不条理に対する無力感」「それでも少しずつだけれど(勝手に)進んでいくこと」「少しだけ前を向くこと」と「ぼっちの成長」の楽曲とのリンクっぷりが見事であることは勿論のこと、それらが声優・青山吉能の歌唱能力とアーティキュレーションによって、楽曲展開に合わせ表現されきっている。「できれば世界を僕は塗り替えたい」で始まるAメロの机上論〜杞憂〜空想の「無気力な堂々巡り感」から、サビで感情が少し乗り、Cメロで現実を直視し、大サビでは「諦観しつつもそれでもやっぱり前を向くしかないんだ」という抑揚の付け方があまりに見事。制作者たちが「ぼっちがそこにいた」と評するのも納得で、これが前述の「アニメ作品内における最終シークエンス」の強度を果たしてなく底上げしている。
何も知らずに一聴すれば単なる「作品内容にあやかった声優のカバー」で終わってしまうかもしれない。しかし、作品内の「後藤ひとり」の成長や人となりを知っている上で聞けば、「ただの声優のカバー曲」としては終わることが出来なく真の価値が生まれる、名カバー楽曲だと感じた。
そして、その上で「今日もバイトか」という何気ない一言で作品が締まるのがあまりに美しい。「変わらない生活であるが、1話と比べて少しだけ進んで、これからも生活は少しずつ進んでいく(そしてそこに正しく向き合っていく)」という最終シークエンス全体に通ずる意味合いをこの一言に詰めきっており、極めて技ありで鮮やか。
全体的なテイストとして所謂「きららアニメの空気」を保ちつつ、そういった異常なこだわりを見せる描写が随所に散りばめられた作品を象徴する1話でした。傑作だと思います。
最終話視聴後の副読本および本感想の参照元として、
リスアニ「結束バンドの神アルバムはこうして生まれた!TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』長谷川育美×三井律郎×岡村 弦スペシャル座談会」及び、音楽ライターs.h.i.氏のmikikiのディスクレビュー&2022年後期ベストアルバム評の記事内の言及も最終話後の諸氏であればぜひ読んでもらいたい。