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とても良い

囮物語だけ再視聴。何度も視聴しているが、やはり千石撫子には自分の実存と重なるところがあると感じるので、その直感を改めて展開してみる。

千石撫子は、クチナワのお札探しに協力しつつも友人に対して日常を擬態する理由を「心配をかけたくないから」ではなく「怪しまれたくないから」と説明する。不快感が他者に帰属せずに自己に帰属する。彼女の世界には自己の気分だけが存在していて、他者はいない。暦おにいちゃんへの恋愛感情も、その恋愛感情そのものを欲望しているのであって、暦おにいちゃんとの現実的な恋愛関係は欲望されていない。いわゆる「自閉的」な実存である。漫画が好きなこととも通じている。現実と空想にほとんど区別がない。したがってより快い体験をもたらす空想の方に惹かれる。彼女にとって現実での振る舞いはとりあえず生きていくための仮のものにすぎず、他者に対する自己の表現になっていない。そうして場面ごとに振る舞いを切り替えているうちに、しだいに矛盾した自己像がいくつも生まれていき、どれが本当の自己なのか分からなくなり、自己が分裂する。逆撫子や神撫子といった異なる形態は、それを戯画的に表現している。撫物語は、その分裂した自己を統合していく話であり、それは彼女と同じような「自閉的」な実存を生きてきた私のような人間にとっては、成熟のために欠かせないプロセスである。その場を乗り切るためだけの仮初の振る舞いをやめ、現実と空想の区別がないような「認識の主体」から、振る舞いが自己と通じた「行為の主体」へ移行するのである。撫子は、撫物語で、斧ノ木余接に対して「現実が厳しいことが今はうれしい」と語っていた。行為の主体においては、空想的な認識の心地よさではなく、現実からのフィードバックに絶えずさらされるなかで主体を維持するその手ごたえ、つまり主体性の感覚が生きる喜びを生むのであり、このセリフは撫子がそうした移行を経験したことをよく表している。



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