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全体
良い
映像
とても良い
キャラクター
良い
ストーリー
良い
音楽
良い

1回鑑賞した状態での感想。
少しもやもやした部分についても書くけど、かなり誤解や見方の浅さによるものだとは思う。申し訳ない。2回目観たらまた違うかもしれない。

まず、絵作りがめちゃくちゃスタイリッシュで超かっこいい。キービジュからも感じてはいたけど、それが動いて音が着くことの気持ちよさ。特にライティングの美しさが白眉だ。空気感、影の色の付け方。まさに空気遠近法とかもがっつり使ってて、なんというか、この作品全体がまるでMVみたいだ。MVのアニメって普通の商業アニメとは何か違う雰囲気を感じるんだけど、あのインディーズ的な感じが全編を貫いていて、それがこの作品のテーマとよく合っている。

特に良かったのはMV制作シーン。ポンポさんとかバクマン。(実写)とか思い出したよね。かっけー! あんな風に自在に作れたら、きっと気持ちがいいだろうなあ。何かを思いついて、うおおおってなってのめり込んで作っていく感じ。すごくわかる。

* * *

以下、物語についてつらつら考えたことを正直に書く。

自分はいわゆる「創作に打ち込む」系の作品は結構好きだ。それは、自分が創作に強い憧れを持ちつつ適性が全然ないというコンプレックスの裏返しでもあると思う。

本作も、創作に賭ける若者達の青春劇として、作り手の情熱は十二分に感じられたし、まさに創作を志す人たちへのエールになっているなと感じた。

でも、なぜか、「ああ、創作に対する姿勢は、自分とは少し違うな」と感じた。いい悪いとか正しい正しくないでは決してない。こういう向き合い方があるんだ、という気づき。それがすごく新鮮で、面白かった。

彼方も夕も、「自分の作ったモノで誰かの心を動かしたい」のがモチベになっている。特に夕はまず「先生の歌にMVをつけたい」がまずある。どんなMVか? はこの時点では浮かんでない。先生のこんなに素晴らしい曲を知って欲しいという想いがあるだけだ。

それをみて、ああMVの本質はエールなんだな、と思う。曲を聴いて何か強烈に表現したいことや映像が浮かんだ、という順番じゃない。あくまで「エール」が先で、自己実現や自己表現はおそらく二の次だ。そうだ創作にはこういう側面もあるんだとハッとした。応援動画、応援イラスト、そういった文化は確実に00年代以降のサブカルを牽引してきたし、その文化は誇るべきものだと思っている。ただ、これは完全に好みの問題だけど、自分はやっぱり何かを表現したいという強烈なエゴに突き動かされた創作者に惹かれる。自分がすごく利己的な人間である証左なんだと思う。

* * *

個人的には、すべての創作は、作者の手を離れたら完全に受け手に委ねられると思っている。受け手には解釈の自由、誤読の自由がある。だから、彼方が最初に「未明」を聴いて浮かんだ塔に挑む女の子のイメージは尊重されるべきだと思う。たとえどれだけ作者の意図と違うものを受け取られようとも、それは確かに彼方が「心を動かされた」結果であり、「夢を諦める」というビジョンを作者である夕は強要することはできない。解釈違いを出されたら「うん、そういう見方も面白いね。ありがとう」とにっこり笑って返すのが、たぶん良く出来たクリエイターの作法だ。

夕はそれができなかった。彼方と同じく夕もまた表現者として経験値が足りてないというのもあるけど、それだけ夕は彼方を信じてしまっていたのだろう。自分の鬱屈した感情を理解してもらえると思ってしまっていたのだろう。だけど「受け手の解釈の自由」に先に気づいたのは彼方のほうだった。友達のバンドのMVを作ることで、「違う見方」を示すのもまたMVの力だと気づく。そして夕のイメージに一見寄り添った動画を作りつつ、最後のメッセージは違うものにしてみせた。彼女へのエールだ。他者への応援と自己表現のせめぎ合いの中で見いだしたギリギリの解なんだろうと思う。スマートなクリエイターの理想形かもしれない。なるほど、すごいな。

でも自分はやっぱり、最初のMVも評価したいと思うし、ちゃんと見てみたい。そう思うのだ。

* * *

スマートといえば、彼方も夕もトノも、すごい才能とそれを形にするスキルがすでに備わっている。MV制作シーンで彼方が見せる才能とスキルは、自分にとってはもはや神だ。もちろん、そこに至るまでには大変な努力があったのだろう(トノのスケッチブックはそれを物語っている)。だけど、この作品はその過程にはあえて踏み込まず、すでに十分な実力を持ったクリエイター達が、外的要因で夢を諦めざるを得ないフェーズを描いている。

自分はそんな境地に立ったことがない。自分が知っているのは何も生み出せない苦しみだけだ。誰かの心を動かしたいなんてとんでもない、それでも、誰に見られなくとも何かを作りたい、いや作った気になりたい。そのレベルだけだ。だから彼らのような雲の上のクリエイターにもこんな悩みがあることもまた新鮮だった。自在に作品を作れるようになると人は他人の心を動かしたくなる、自分の作品で他人を応援したくなる、だけど自分にそれだけの力があるからこそ、それを手放さなければならないことへの苦悩。神の苦悩だ。でも彼らにとっては確かに身を切るような絶望なのだ。

* * *

個人的にモヤモヤしたのは、夕が夢と現実を二者択一で考えてることだ。プロのミュージシャンとしてやっていくか、音楽を諦めて教師として生きていくか、の二択なのだ。もちろん、教師をやりながら趣味や兼業で音楽を続けていく、みたいな選択肢に甘んじたくないという気持ちは若さの特権だし、理解はできる。だけど、夢を忘れた大人として野暮な発言をさせてもらえるなら、やっぱりある程度音楽で食べていく目処がつくまでは生活の安定は重要だし、いくら彼女の曲が好きでも「君は仕事をやめてミュージシャンになるべきだ」みたいな無責任なことは言えない。はっきり言って、なれない可能性が圧倒的に高いからだ。彼女なら仕事帰りに(教師なので本名で同じ市内で芸能活動するのはかなり無理ありそうだけど、割と放課後は暇っぽいので)ライブやるとかから始めて少しずつ売り出していったほうが……うん、野暮だな。野暮で無粋なことを言ってるのはわかってる。夢を諦めない姿勢が大事なのはわかる。彼方の気持ちもわかる。だけど、自分は彼女がこのまま突き進んでもうまくいかないと思えてしまうのだ。彼女には才能があるからこそ、もやもやしてしまう。

そして逆説的に、トノにも同じことを感じた。人知れずもがき続けるトノは主要メンバーの中で一番共感を覚えたキャラだ。彼も美大を諦め、スケッチブックを捨て、受験勉強を始める。高校生の狭い視野なら美大かそれ以外かの二者択一になってしまうのはよくわかる。その辺のリアリティはすごい。だけど自分としては、トノにはただの夢破れたキャラクターで終わってほしくない(彼方の最後のMVにも昇華されてはいたけど)。彼にも何らかの救いは欲しかったし(見落としてるだけかもだけど)、いくらでもそれは実現できる。受験終わったら絵を再開してほしいなあ。

とはいえ、彼らレベルになるともはや趣味で何かを作っているというのでは満足できないのだろう。彼らはもはや、作りたいから作るという次元をとっくに超えている。クリエイターのエゴを彼らは超越している。誰かの心を動かしたいから作る。そして実際に彼らはそれができるだけの実力があるのだ。夕の音楽は彼方を動かしたし、彼方のMVは夕を動かした。さて、誰かの心を動かす力を最大化するには、仕事の片手間になんかできない。本業として取り組む必要があるのだ。明快だ。その高みまで手を掛けられる彼らにしか見えない景色と苦悩がある。これはきっとそんな物語なのだろう。

* * *

最後に、金沢市と羽咋市が舞台になっていたことが印象的だった。恐らく偶然なのだろうとは思う。だけど本作はまさに、金沢市と羽咋市に対する確かなエールになっていると感じた。



全体
とても良い
映像
とても良い
キャラクター
とても良い
ストーリー
とても良い
音楽
とても良い

原作既読。原作発表当時、圧倒された人間なので、映画化と聞いたとき正直不安だった。でも2月に発表された30秒のムービーを観たときに思った。

ああ、漫画のコマとコマの合間にあったであろう何かを記述している、と。
貧乏ゆすり、息づかい、消しゴムで消すときの思い、鏡に映る顔。
観に行こう、と思った。

映画が封切られて、少し仕事が落ち着いてから見に行こうかなと思ったけど、特典に藤本タツキ先生のネームがつくと聞いて原作ファンとしては万難を排して観に行かざるをえなくなったw

凄かった。原作をほぼ忠実になぞりつつ映像でしかできない表現やカットがさりげなく追加されている。原作ファンって普通映像化に何か言いたくなるものだけど、もうこれは褒め言葉しか出ない。

冒頭は小4の藤野が漫画を描いてるシーンから始まる。原作になかったけどすごいと思った(漫画でこれをやると多分ツカミが弱くなるので映画だからこそできるやつだ)。背中がすべてを語っている。貧乏揺すり、描いては消し、構図を思い悩むことでさえ楽しい時間。思いついてペンを走らせる瞬間。このシーンがあるからこそ「5分で描いた」が嘘であることがわかるし、藤野が「嫌なヤツ」じゃなくなる。

動きがすごい。自分はアニメは疎いので押山監督のお名前も知らなかった。そんな素人でもこれが神作画であることはわかる。しかも全カット、全コマ。3DCGのモーションキャプチャベースでは出し得ない、アニメーションの緩急の快楽みたいなのを感じた。コマを並べてその間にあるものを想像させるのが漫画だとすれば、それを仮現運動で補完するのがアニメーションの本質だ。京本の漫画を見たときの藤野の表情の変化、藤野が初めて笑顔になった瞬間、雨に踊る藤野の足取り、美大に行くという京本に藤野が一瞬なにかを言いかけてやめるカット…(あのシーンは、逆光であおる構図とか木を挟んで二人が分断された構図とか、原作にないカットがいくつかあってそれが本当に素晴らしかった)。そういう何か一瞬の逡巡を捉えたカットがあちこちに散りばめられている。そこに涙が出そうな美しい背景美術と音楽が加わったらもう最強でしかない。

実写でも3DCGでもなくひたすら手書きで作り上げられたこの映画は、それ自体がこの作品のテーマのメタな具現化であって、「絵を描くこと」への執念を強く感じさせる。

 * * *

『ルックバック』というタイトルには7重くらいの意味が込められてるように思う。
1:まず単純に、昔を振り返る、ということ。だからこの映画の基点は売れっ子漫画家になった藤野キョウなのだ。
2:『背中を見て』という京本の4コマのタイトル。作中作のタイトルが実は同じだっていう構造。「藤野先生、背中に凶器刺さっとるやないかーい!背中見ろー!」という、「志村、後ろ後ろー!」的な渾身のギャグだ。
3:『背中を見て』は藤野へのツッコミであると同時に、「ずっと藤野先生の背中を見てきました」という京本のファンレターでもある。あの世界線の京本は藤野と出会わなかったけど、藤野の漫画を全部スクラップ帳に貼るくらいのファンだった。ピンチの時に推し作家が急に現れて、シャークキックばりのキックで命を救ってくれたらそりゃあんな4コマも描きたくなるってものだ。「京本も私の背中みて成長するんだなー」京本は本当に大きく成長した。
4:藤野もまた京本の「背中を見」つづけてきた。見知らぬ京本の画力に打ちのめされ嫉妬しながら、彼女の背中を追い続けた。あれほどの猛勉強を彼女にさせるほどの、強烈な憧れを藤野は京本に持っていた。その推し絵師から「ファンです!サインください!天才です!」なんて言われたらそりゃ雨の中で小躍りもするってものだ。
5:どてらの「背中を見」ると、そこにはサインが書いてある。藤野と京本の原点であり、京本の部屋で喪服の藤野が「振り返っ」たときに目に入る印象的なシーンだ。
6:観客や読者もまた、ひたすら「背中を見る」。映画は漫画を描く藤野の背中で始まり、終わる。映画の1/10くらいは彼女の背中なんじゃないだろうかw 決して正面や横から写さない。ただ背中だけが描かれる(だから彼女の椅子には絶対に背もたれがない)。こうやって僕らも彼女の背中を、あるいは誰かの背中を見て、それに突き動かされて生きていくんだと思う。
7:作中での、(観客にとっての)一種の時間遡行の仕掛け。
あと原作で明確に示されていた「Don’t Look Back in Anger」への言及を入れると8つか。

 * * *

藤野は京本の画力に打ちのめされ、挫折感を味わう。でも、たぶん本人は気づいてないけど彼女のギャグセンスとプロットは天才的に巧い。『奇策士ミカ』とか、小学生でこれはヤバい。そんな類い稀な能力をもつのに、他人の画力に嫉妬するのだ。そこから必死に絵の勉強をして画力がめきめき上がっていく描写が本当に好きだ。小6で描いた『真実』はギャグセンスと画力どちらもとんでもないことになっている。何かに突き動かされてひたすら粛々と努力して限界を超えていくような作品が、自分は大好きなのだ。自分にできないから強烈に憧れがあるんだと思う。それでもスケッチブックの数は京本にはかなわない。SNSで可視化された「上には上がいる」という絶望。

 * * *

この作品で自分が好きな部分は、そういう創作賛歌もあるのだけど、さらにあと2つある。虚構が現実を救うということ。そしてそれをさらにメタなレイヤーで止揚している構造。原作でやはり明確に参照されていた、タランティーノの映画『Once Upon A Time in Hollywood』に対する鮮やかな返歌だ。

『ルックバック』原作が公開されたのは、7月19日だった。7月18日に起こった出来事を、自分はまだ心の中でうまく受け止めることができていない。以下、無神経なことを書いてしまっているかもしれない。申し訳ない。発表当時広く言われていたように、タランティーノもタツキ先生も、根っこにはかなり近いモチベーションがあるのではないかと思う。ハロワの武井Pの言葉を借りれば「フィクションによる救済」だ。ふたつのフィクションがぶつかった挙げ句の「映画(漫画)の勝利」であり、「負けない」というクリエイターの意思表示だ。

だけど『ルックバック』はさらにそこに一ひねり入れてくる。幸せな世界線から観客(読者)は現実に戻ってくる。でもドアの隙間をくぐり抜けた4コマが2つの世界をつないでいる。

自分はこういう「2つの隔絶された世界がほんの一瞬接続する(ように見える。でも本当のところはわからないし、当事者自身も気づかない)」という物語構造が本当に大好きなのだ。京本を外に連れ出した藤野の悔恨が詰まった「出ないで!」という切れ端が、京本を部屋に押しとどめる。そして逆に京本の一種のファンレターでもある4コマが、藤野の元に戻る。美しすぎる円環構造だ。

あの構造に『インターステラー』とか『あなたの人生の物語』(映画『メッセージ』)みたいなSF的構造を読み取る人も多いし、重度の映画フリークであるタツキ先生は当然これらを参照はしているだろう。ただ自分としては、ただ現実と虚構の枠組みでこれを受け止めたい。あの文字通りの「最高のハピエンif」は実在する別の世界線なのか? それはわからない。ただ、僕らから見れば藤野の「現実」でさえ、映画であり漫画であり虚構なのだ。だからif世界線も僕ら外側の人間にとっては「同程度に」虚構でしかない。裏を返せばきっと「同程度に真実」なのだ。京本がいない世界線といる世界線には何ら優劣はない。それが虚構の力だ。

藤野が突然現れて犯人をキックするあの場面は、(空手の伏線も見事だけど)明確にシャークキックの具現化であり、「フィクションのいいとこ全部乗せ」である。あのシーン、映画なのに唐突に漫画のような「コマ割り」がされてた気がする(気のせいかも)。つまり明確に「これは漫画なんです」「ほら、京本を救えるんです。漫画ならね!」みたいな意志を感じるのだ。

if世界線の京本から「ファンでした(過去形だ。藤野ちゃんに頼らないで夢に踏み出した京本の成長を感じる)」と言われたとき、藤野は彼女が京本だとまだ気づいていない。ただの美大生としか思っていない。でも「なんで漫画描くのやめちゃったんですか!?」のあと、藤野にフォーカスが移ってから、映画では明確に少し間がある。ここで確実に彼女は「やめたきっかけ=京本」を思い出しているはずだ。まさか目の前にいるのが本人とは思ってないだろうけど。そして、彼女の称賛は再び藤野の心に火をつけたのかもしれない。「最近また描き始めたよ!」は実はフェイクで、この瞬間に彼女は漫画を再開を決意したのかもしれないなとも思う。現実の構図がそうだったからだ。卒業式の日、どうして小6の途中で漫画をやめたのかを訊かれて、「漫画の賞に出す」「ステップアップするためにやめた」とその場で出任せを言いつつ、再び漫画を描きはじめたからだ。

「if世界線は、藤野があの一瞬で考えた想像なのだ」という解釈を読んだこともあって(たとえば https://note.com/_6161/n/nbeb703fdb30d )、これはこれで好きな解釈だ。この解釈では京本の漫画『背中を見て』の文字がどう見ても藤野の筆跡だったことから、この漫画自体が藤野の想像であると結論づけている。でも、今回見た映画では、「背中を見て」タイトルは藤野ではなく京本の書き文字のように見えた(一瞬だったので気のせいかもだけど)。だとすると少なくともあの漫画は京本が確かに描いて、藤野に確かに届いた、ということなのかもしれない。

本当に隔絶された世界の壁を超えて、ひとつの4コマが物理的に届いたのか。それとも「現実」の京本がたまたま描いて窓に貼っていたファンレター的な1枚が、たまたま風に吹かれてドアをくぐり抜けた、それだけのことなのか(窓に貼られた4コマの配置には、不自然な隙間がある)。どちらであってもそれは一種の救いになりうると思う。前者であればそんな奇跡こそ、僕らがフィクションに求めるものなのだ。そして後者だとしたら、京本が藤野と別れてからもずっと藤野先生を慕い続け、画風やギャグセンスまで完全に真似してあの作品を描いた証左があの4コマであり、それを見た藤野の脳内にあのハピエンif世界線が一瞬で構築されたのだとすれば、それこそが人のもつ想像力・創造力の発露だからだ。それは決して逃げでも現実逃避でもない。どちらであっても、それは藤野が京本のいない現実を生きていくための支えになる。

 * * *

今回、特典のネームを読んで、プロットもカット割りも完成版の漫画とほぼ同一であること、ただ登場人物の名前だけが違っていることに驚いた。藤野と京本——明らかに二人とも藤本タツキの分身であり、また「京」の文字をあてたことにも覚悟を感じる。

 * * *

さて、ここで恒例の自分語りなので適当にスルーしてほしい。この映画は、すごく共感性羞恥だとか自分のモチベだとかそういうものを再確認する作品でもあった。自分は藤野と京本の悪い所だけをくっつけたような人間だった。小4のとき、友達がノートにギャグ4コマを描いて周囲に見せていた。「自分ならもっと面白いものが描ける」そう思った自分は、ノートにギャグ4コマを十数本くらい描いて周りに見せた。ただの棒人間みたいな漫画で、別に藤野みたいに絶賛されたりもしてないけど、自分のほうが面白いという暗い情念みたいなものはあった(さっき黒歴史が詰まった段ボール見たらペン入れした原稿出てきて速攻しまった)。中学でも友達のアニメキャラのイラストを見てやっぱり「自分はもっとうまく描ける」と根拠なく思った。ちなみに今思うと自分はどう考えても平均以下で、その友達と同程度だ。とても「絵を描いてます」とか言えるレベルじゃない。でも近所の文房具屋でペン軸とペン先(丸ペンとGペン)と黒インキを買った。画材屋が放課後のお気に入りの場所になった。漫画は無理なので(ストーリーが作れない)、基本的には絵だけ描いていた。とはいえ、その頃にはもう人に見せるでもなく、デッサンやパースも何も勉強しなかったので永遠に落書きレベルに甘んじていた。結局、自分の思うような絵が描けなくてやめた。練習しないのだから当たり前だ。当時SNSがなくて良かったとほんとうに思う。

だから描いて描いて、めきめきと画力を上げていく藤野が本当に眩しかった。

今は何も描いてない。ペン軸とペン先はまだ実家にあるだろうか。

ただ、代わりに最近、まあいろいろあって、ネット上に時々クソ駄文を書くようになった。とはいえ別にクリエイターを気取るつもりは一切ない。自分はそっち側の人間にはなれないのだということは、とっくにわかっている。ただのごっこ遊びでしかない。藤野のような、上手くなる努力を何もしていないから、本来なら人様に見せるべきでないようなひどいクオリティのままだ。

だけど、きっかけのひとつに、何人かの方の背中があった。

追いつける気はしないし追いつこうとも思わない。でも彼らの「背中を見る」ことは確かに、自分のモチベーションのひとつになっている。

そして、ごくごくたまに、面白かった、と言ってくれる奇特な人が現れる(ありがとうございます)。その瞬間の自分の気持ちは、まさにあの卒業式の日、雨の中を小躍りしていた藤野そのものだ。いい年して、もう本当にあんな感じなのだ。なかでも、自分が背中を見続けていた人の一人からそれを言われたときにはもう死んでもいいと思った。

だから藤野も自分が憧れていた京本からのフィードバックに本当に救われたと思う。フィードバックは2度ある。卒業式の日の「ファンです」責め。そしてドアの隙間から出てきた『背中を見て』の4コマ。背中を見ていた人がこっちを見てくれた。一方向だったベクトルが一瞬双方向になった。しかも、2度目は言葉ではなく、互いの「作品」でそれをやってるのだ。本当にすごい構造で惚れ惚れする。

この作品をきっかけに、また誰かが彼らの背中を見て何かを作り続けてくれると良いなと思うし、自分も、僭越ながらも駄文を書き続けたいと思う。
「描き続ける」。キャッチコピーがそのまま、あのEDに凝縮されていると感じた。

 * * *

ちなみに映画館ふらふらと出て、少し悩んで、また戻って次の回のチケットその場で買ってもう一度見た。こういうことをやったのは2019年に『HELLO WORLD』を初めて見たとき以来だ。もっとも、普段は大体上映回数が減ってからレイトで観るのでやりたくてもできないというのが大きい。特典商法もたまには役に立つw

なお、タツキ先生の短編『さよなら絵梨』もすごいのでオススメです。
実はちょっとだけこの『ルックバック』に出てきた!!!
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-883167-1



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