「別れの一族」という言葉だけで大まかなストーリーは想像できてしまう。
それでも最後まで目が離せなかったのは、その一つひとつが丁寧に描かれていたからだ。
初めてママと呼んだ日、お母さんと呼んだ日、お母さんを紡いだ日、母と呼ばなくなった日、母を否定した日、母を守ると誓った日、父親になると誓った日、自分の家族を守ると誓った日、そしてまた母さんと呼んだ日――。
その全てが繊細に表現されていて、呼び方の変化が「二人の関係の節目」を象徴していた。観ている自分も自然とマキアとエリアル、母と子の視点を行き来してしまい、涙が止まらなくなる。
「母親になるとはどういうことか」
「子どもが大人になるとはどういうことか」
奇抜な設定で誇張するのではなく、ひたすら人間らしい営みとして描いていた。だからこそファンタジーでありながら、驚くほどリアルに胸に刺さる。
レイリアがあの瞬間に抱きしめなかったのは、愛していないからではなく、むしろその逆。抱きしめてしまえば娘を自分の世界に縛ってしまう。だからこそ、最後まで「母親としての衝動」を押し殺し、距離を取ったのだと思う。残酷だけれど、それは「娘を自由に生かすための愛情表現」だったのかもしれない。
――抱きしめなかったからこそ、あの別れは痛烈に「母の愛」として観る者に刻まれる。
そして、最後にさよならの朝が来る。
別れの一族と聞いた時から想像していたシーンだが、片時も目が離せなかった。
その後、長老が無事だったとわかる。
まだ戻る国がある。そう思えるだけで少し救われた。