承認への欲求を持ちながらも自己肯定感の低さからマイの好意に耐えられないユア。ユアへの想いを捨てきれないマイ。物語がどう帰着するか全く予想できなかったけど「自分を見つめ直して新しい居場所を探そう」エンドか。
マルチコントローラー!サターンのマルチコントローラーじゃないか!!
うーん、これはフレネミー!虐げられた者であるアズだからこそ気づいたユアの邪悪さをバシバシ指摘していくシーン、気持ちよかった。
あやまれてえらい!
「努力せずともそれなりに見られる美貌を持ち」「それに無自覚で」「何にも脅かされることなく生きている」ユイナは、後ろ指をさされ続けてきたアズの天敵だったわけだ。そりゃ反発するのも当たり前か。
常に賛否を呼ぶ「ルッキズム」の話。いじめられた者の心に残り続ける傷跡。アズの嫉妬・憧憬・自己嫌悪描写には自分も思うところがあったので何度も頷いてしまったし、それを踏まえてアズが「(ただ太っていると言うだけで)常人がちょっと努力すれば得られるものが『贅沢』になる世界なんてムリ」と叫び、苦しみに慣れてしまった凛子にエールを送るというクライマックスは素晴らしかった。
名作ドラマ『虎に翼』を手掛けた吉田恵里香氏の名前に惹かれて鑑賞。
若干急ぎ足な展開も相まって、この段階では「『おジャ魔女どれみ』のフォロワー」の域は出ない凡作、という印象。ここで脱落した視聴者も多そう。
ただ、「具体的な指示や心配じゃなくて、ただ背中を押してくれる第三者が欲しかった」という願いには大いに共感した。人生、誰かにただ話を聞いてほしいときがめちゃくちゃあるんだよなあ。
マチュ関連の描写は尺の足りなさを感じて(「シュウジが何者か問題」は気にはなるけど、そこまで欠点だとは思わない)、そのせいで「ニュータイプとは今日より強くなる者」という言葉に説得力が足りていなかったのが惜しい。「マチュは不殺を貫いて偉かった」という意見をよく見たものの、「マチュは基本的に蚊帳の外だったので結果的に殺生せずに済んだ」というのが実情だと思う。
だが、それ以外はバシッとキメてくれた、涼やかでいい最終回だった。
鶴巻監督たちぬ振り回され続けた3ヶ月の熱狂は、生涯に何度も味わえるものではなかった。ありがとう、ジークアクスに携わったすべての人達。
面白い・つまらないで言えば間違いなく面白い作品ではあったのだが、個人的には「求めていたものと違った」という不満が拭えず、かなりの消化不良を感じた。
僕は、このアニメを見るうえで「なぜナツコの創作物は全てパロディなのか」「鶴山亀太郎監督を名乗る鳥は何者なのか」「なぜナツコは『滅びゆく物語』を好きな割に解釈は浅いのか」という三点にフォーカスしていた。
最後の一点に関しては「ナツコが『滅びゆく物語』を好きなのは真実だが、実態は『ルークが好き(≒キャラ萌え)』という形容が正確で、ゆえに物語そのものや他のキャラへの愛・注目が薄味に見えた」という形で答え合わせがなされたが、「なぜナツコの創作物は全てパロディなのか」「鶴山亀太郎監督を名乗る鳥は何者なのか」という問題にアンサーを出さないまま、本作は幕を閉じてしまった。
ナツコが『滅びゆく物語』の世界で生み出した創作は、6話の階段と最終回で生み出すルークを除いては全てなにかのパロディだ。僕はこのパロディのラッシュに「ナツコの超人的な技量を表現する」以上の理由があると考察し、具体的には「ナツコは何らかの理由で満足のいく一次創作ができなくなっていて、最終回でそれが解決されるのでは?」といった予想をしていた。
しかし、繰り返しになるが物語はその点にフォーカスしないまま完結する。これが僕が本作に感じている第一の落胆だ。
作劇の要請でパロディに走るナツコは、「他人の褌を借りて天才を気取っている」ようにしか見えない(全修の世界には庵野秀明も板野一郎もいなかったのかもしれないが)。この印象の悪さはナツコの魅力の欠如につながっており、劇中でのナツコの一挙一動にまるで心が動かず、作品にノリきることができなかった。7話における「人格破綻一歩手前の天才が周りを振り回しまくるけど、天才故になんとなく許されちゃう」という扱いも彼女の印象の悪化に拍車をかける。
「鶴山亀太郎監督を名乗る鳥は何者なのか」という謎も、本作は見事に放り投げている。
当初、多くの視聴者からラスボスと目されていた鶴山監督は「謎の傍観者」以上のパーソナリティが明かされることはなく、最後まで「自分の作品が変な二次創作をされたことに腹を立てている厄介原作者」「意味深に出てきた割にストーリーの縦糸には干渉しなかったよくわからない人」以上の存在にはならなかった。
なぜ『滅びゆく物語』という救いのない物語を作り上げたのか。なぜナツコと同じように死後『滅びゆく物語』の世界に転生したのか。何が「無駄」なのか。多くの視聴者が求めていた謎に対するアンサーは、ついぞ得られなかった。
総評すると、前半はオリジナルアニメゆえの読めなさを楽しめたが、後半~クライマックスで竜頭蛇尾に終わってしまった残念な一作。
「動物」と「親子」は反則技だって聖書にも書いてあるでしょうが!!!(涙)
それはそれとしてカナメの新しい師匠探し&エデンの恋という今後の縦糸が提示。一見関係なさそうな二つの物語がどう交差するやら。
サブローの精神世界、ブラックホールは「ちょっとやそっとじゃ満たされない欲望」のメタファーなのかな。
すいません!あのメイドの二人組の薄い本一部ください!
そう言えばララァって身体を売ってたんだった。オリジナルのララァは何かしらの手段で歴史に干渉してアムロもシャアも生き残る世界を模索していた…「百合に挟まりたい男」ならぬ薔薇に挟まりたい女かあ。シャアは候補人物(コンチ・シュウジ・シロウズ)がいるけど、肝心のアムロはどこだ?
世間では「ジークアクス(ハロ)、アムロ説」が支持されてるけど、だとしたらアムロはなぜジークアクスに?それに記憶が正しければハロはララ音が聞こえていなかったはず。謎が謎を呼ぶ〜!!!
前半は『Beginning』まんま。キシリアはシャアのゼクノヴァに「復讐を捨てての献身」を見てしまったわけだ。そりゃ脳も焼かれる。
「ディアブロ」「イオマグヌッソ」という新ワード登場。両方「人類を滅ぼす」「人類のためにならない」と物騒な評価をされてたけど、それを探す/作っているザビ家は何をお考えなのやら。
「アンキー、未来から来た or 並行世界のマチュ(≒『ナデシコ』のイネス)説」ってこれかぁ!!
うわぁゲーツもドゥーくん(ちゃん?)も秒殺されちゃった。ドゥーくん”癖”だっただけに残念。最新話でシャロンの薔薇が「彼女」だったことが判明したけど、ゼクノヴァが「彼女」の介入だとすればシュウジも「彼女」の望む未来に必要なファクターなわけだ。シュウジ何者なんだよ(n回目)。
破れかぶれのエクソダスが成功するはずもなく、マチュどころかマチュ母まで破滅コースに乗ることに。リベリオン(反逆)どころかカタストロフ(破滅)してるじゃないですかヤダーッ!一方のニャアンはまたしても事態が好転。ジフレド動いてたしニャアンもニュータイプなのか。でもマチュがジークアクスとエヴァンゲリオンめいた共鳴を起こしていたのを見るに、オメガサイコミュ周りは既存の宇宙世紀ニュータイプ常識で考えちゃダメな奴な気がする。
ニャアン、めっちゃASD味を感じる。自閉傾向があってしかも難民とか絶対にひどい思いしてきたんだろうけど、それであの優しさを失わないってミラクル。
子どもたちがやれキラキラだ、クラバだと言っている間に大人たちの現実的な話は進む。ニャアンの事態が少しずつ好転する(依然として危うい綱渡りではあるが)一方でマチュはこのままだとデッドエンド一直線。どうなるんだあの狂犬女子。
でもってシュウジは何者なんだよ。順当に考えれば「赤いガンダムから投影された何か(残留思念的なサムシング)」なんだろうけども、100回はこっちの要素を裏切ってきたジークアクスだからなあ、俺らの予想なんて軽々飛び越えていきそう。
えっニャアンもニュータイプってこと?それともジークアクスってインベルの同類なんか?
そりゃ赤い彗星が史実にも増して活躍したんじゃ黒い三連星の名は霞むわな(シャリアには認知されてたっぽいけど)。ジオンは金ないって話あったしリストラされたのかな。
ニャアンの「始まればなんとかなる」って思考、自分にもあるから精神的にキツかった。難民という立場のせいで今まで翻弄され続ける生活を送ってきたんだろうし、クランバトルという「誰かの生殺与奪を握れる場所」の快感を知っちゃって後々大変になりそうだな。
わあいボーイ・ミーツ・ガール あかりボーイ・ミーツ・ガール大好き!!!「幸運でも全てをコントロールすることはできない」ってオチがウマすぎる…!誰からも「幸運の女神」として扱われ、しまいには教祖に祭り上げられる日々。そりゃヒーローになんかなりたくないわな。
ヒーローが助けに現れなかった航空事故、恐怖を広める男(恐怖粒子が発見される以前の出来事?)と「ビコー実験室」、ヒーローの頂点を目指す少女。今後に向けた伏線がバシッと展開されてめちゃくちゃワクワクする。
録画機の不調で1話飛ばしてしまった。ヒーローを作ろうとする(プロデュースしようとする)人、市井にも絶対いるよね…。
本人の意思と反する形でヒーローに担ぎ上げられそうなシアン.彼女もまた自分の意思で「TO BE HERO」するんだろうが、親友は闇堕ちしたっぽいしハッピーエンドの図は到底思い浮かばない。どうか彼女に救いあれ。