ネタにされている例の場面について知りたくて観たが、まぁ唐突とは言えそう変な流れではない印象だった。どちらかというといつまでもラディーチェから連絡手段を奪おうとしないタカキ達だとかそういう場面の方がフラストレーションがあり気になる部分(強行しようとしてその事をネタに立場を奪われる…といった流れの方が納得感がある気がするが、そこは大人になりたかったという話なのだろう)。
結局ラスタル体制で情勢が良くなったのなら鉄華団のしてきた事は無駄だったのか? いやそうではないだろう。上はアーブラウ代表にまで至る広い関係は彼等が戦いの中で手に入れたものだからだ。彼等は確かに「進む」事で未来を手にした。
マクギリスという男は、バエルの威光を過信した点で鉄華団には迷惑な奴だったが、アルミリアの事を大切にしていた(死ぬ間際の言葉くらい信じて良いだろう)点で個人的には好きだ。
三日月は最後まで敵の講釈に付き合わないのが印象的だったが、この底知れなさはオルガが団員から感じている重責の象徴と言えるかもしれない。
結局のところ鉄華団が皆「切った貼ったをしない」人生となった訳ではないし、犠牲も多かった。決して鉄華団は成功したのではないものの、彼等の生き様が否定された訳ではないと思う。団員の居場所を探し、だがいつしか鉄華団自体が団員の居場所となっていた、そんな風に鉄華団を引っ張り続けたオルガの生き様は尊敬に値するだろう。
戦闘は今一つ何を見せたいのかよく分からなかったが(でかい龍がいれば迫力あるだろうとかその程度のノリに感じてしまう)、キャラは絵も動きもしっかりと可愛い。従ってユエの加入する第3話から「キャラ見てればいいのか」と分かってくる。
そもそもユエはアイシャドウ的に大胆に瞼部分へ付けられた影が色気を出しており天才的キャラクターデザインなのだが、イヤリング(何故かピアスではないようだ…穴が再生するから?)やフォーマル系の服装で安易にロリに寄せない点も素晴らしい。声についても第11話「あなたにできる?」の部分など愉悦、誇らしさ、脅迫のどれもを感じさせ非常に深みがある。不満はいつの間にか「恋人」とか言っている辺りをもう少し詳しく伺いたかった程度か。園部あたりのクラスメイトはそこそこ内面が丁寧に描かれている所為で、むしろ前半に駆け足で登場した香織、雫あたりの方がキャラが薄い印象だった。
話としては相対主義的にフワフワしていくのではなく断固「敵は殺す」で行くのも良いと思うが、それなら檜山を結局放っておくのが(ハジメ視点ではなく物語の筋として)すっきりしないところ。
絵は良いのだが、よく分からない思考で「殺す」と言い始め性格も豹変する主人公、派手に腕を吹き飛ばした割に最後は静かに風穴を開けるだけの演出(スタイリッシュな感じにしたかったのだろうが…)などややシュールと言わざるを得ない。
「またオレ何かやっちゃいました?」等の場面で有名なだけに、これぞ異世界転生という才能でどうにかする物語になっている。ただギャグ調の進行とは裏腹にシュトロームの暗躍で人が死にまくっているので、時折ノリの落差が気にならないでもない。
研究会のメンバーはそこそこの人数がいるが、それぞれの場面できちんと言動の描き分けがなされていて良い。シンが婚約の話にちゃんと応じたのも好印象。そもそもセシリーを始めとしてキャラが可愛く描かれているべき場面でちゃんと可愛いだけでも素晴らしい。
魔法のエフェクトになかなか気合が入っていて、光線を放つ時のキラキラなど(このすばとか、ちょっと違うがキルラキルでもあった)超常的な何かを予感させて好きだ。
「軍事利用」についての指摘が見られるが、第5話の「魔人の襲来ならともかく~」を踏まえればシュトロームとの戦いもある種の天災への対処と見做せるだろう。とはいえアールスハイド王国が盟主となれば「世界の警察官」が如き覇権を手にするのは明らかであり、政治的とは言える。まぁそこは「みんなに危機が迫ったら俺は戦場に出るよ」というシンの意志やオーグ等の心意気を酌んでも良いのではと思う。
『キルラキル』と並ぶ今石洋之&中島かずきの熱き魂を感じる作品。まぁこれに関しては「観ろ」と言う他ないだろう。
ただ唯一ラストについては納得のいかないところで、何故ニアは消えなければならなかったのか。ダヤッカの場合と比較してみると、要するに男は父よりも戦士であれという事なのだろう。(攻殻のゴーダを思わせる主張だが、こうした「英雄」表象はどこから来るのか?)しかしそれは幸福な結末を、この作品のパワーを打ち消してでも描くべきものだったのか。それは宇野常寛(評論家とは厄介な存在なので一々他の話は知らないが…と註釈が必要になる)が論じている様な「男らしさ」の問題を体現している様に思える。
冒頭から「ベフォールの子供たち」についての伝奇的導入は実に鬼気迫るもので、一瞬にして時を超えた壮大な物語に引き込まれる。そのまま「ベフォールの子供たち」と題されたクラシック調の劇伴も非常に印象的。何百年という彼等の足跡を辿り「転生」という事実に到達する…という筋だけでも面白いのだが、それはクックスとアリスの視点に過ぎない。本作は群像劇であり各々の視点から紡がれた物語がやがては交叉していく。その大いなる物語がある為に、各キャラクターの情動の描写が劇的なものとなる。長い執拗なカットにも堪えるだけの奥行きを視聴者に想像させる。
アジア的な小さい島で船を走らせ、また電車に乗り、そうした地に足の着いた生活圏からやがては秘密研究所や超文明の宇宙船まで、世界の描写がきっちり地続きになっていて高いリアリティを演出している様に思う。これほどのスケール感をこれほども精緻に描いている点で間違いなく傑作だろう。
少々下ネタが多いかというくらいでほぼ全方向に質の高い名作。
バトルシーンはどれも気合の入ったものだが、特に第7話の冒頭は圧倒的な迫力がありかつ何が起こっているかは分かりやすく、またエリスの感情の乗った戦闘スタイルも明瞭に描かれており傑出している。これを神作画と呼ばずして何としようか、リミテッドアニメーションの神髄である。
キャラクターについても、特別手の込んだエピソードをやっていなくとも非常に豊かな芝居を付ける事でその魅力を引き出している様に思う。例えば第2話でロキシーがスペルド族の話をする場面でも、ただ話をするだけだが「ちっちゃくありません」と言った後に一旦改めてむくれてから話を戻す、髪を弄る所作、椅子越しに頭の上から圧を掛ける構図、といった部分で子供っぽくも教師の立場を意識した姿勢が現れているだろう。またエリスで言えば第5話の「大声を出さない」という約束を必死に守ろうとするところだとか、第6話でも贈り物については事前にお金の使い方の話をしているので思いやりを持って選んだ事が窺われる。思いっきり暴力女という印象だったエリスが剣術の腕を上げ、冒険好きという方向に発展していくのはギャップを使うのとはまた違った(オタク的には珍しい正道の?)キャラの深め方で面白い。
昔魔族との戦争があって~等と言うのはよくある設定だが、そこでのスペルド族の行いが警句を残したり今のルイジェルドを苦しめたり、とこの作品では地に足のついた歴史として織り込まれている。
ギャグ調なのでそんなに踏み込んだ話はしないにしても、キャラクターの内面をもう少し描いて欲しかった。例えばエリーゼについては遺跡でのキスがかなりの事件であろうに、イーナとルイーゼがちょっと触れるだけでこの件は終わってしまう。ヴィルマに至ってはこれといったエピソードもない。
貴族社会の云々は推してる要素だけあって描写が細かく面白いが、欲を言えば魔法や冒険者という職との関連も掘り下げて欲しかったところ。魔法については遺伝しないという話なのであまり影響しないかもしれないが、冒険者についてはクルトが「冒険者風情が」と言っている様にこの世界でも無頼のイメージがあるはずだ。中世的世界で武力を担うとなると騎士か傭兵かが基本で、冒険者というのは世界設定のディティールを高めるほどに不明瞭な存在になる。
キャラの薄さ以上に退屈な印象を出しているのはバトルシーンの平凡さだろう。瞬殺という訳でもなく、また遺跡の様な長い戦いでもこれといって熱い思いをぶつけたりもない。「貴族社会の柵」とは関係ない部分なのでまぁそんなものかもしれないが、もう少し主人公の心境の変化とか周りとの関係性をバトル毎に押し出した方が物語としてちゃんと仕上がったのではないかと思う。
褒賞が土地だったり貴族が領主やって徴税して私兵を持ったりして、ちゃんと中世しているのが良い。
展開についてはなんでアルコールが魔物に効くんだとか、グラスは浄化なり何なりできないのか(初登場の強者感はどこへ?)とか、ところどころ雑な気もするが演出でどうにかなっている。
しかし最終回にしてもラフタリアの「どこにも行かないで」に結局答えておらず、関係性的に言うと第4話以上のものはそれ以降描けなかった様にも思う。
あと槍のヘイトをコミカルな描写で下げているがあまり成功していない印象。
グダグダと同じ戦いを何週も扱ったりしないテンポ感はいいが、思い返すと気になる点も結構ある。
ただ一瞬で品種改良だとか実はチートな事をしつつ、馬車を引き時には傷つき苦労しながらやっている為か、あまり嫌味な感じにはなっていない。序盤のストレス展開だとか人間の愚かさに耐えられるのなら割と楽しめる異世界ものだと思う。
再び奴隷にするというのは現代人としては止めるべきと思うが、どうもこういう展開が好まれている様で🤔となる。前回はっきりと心理的な絆が確立された訳だから、個人的には不要ではないかと思うのだが。
槍はすっかり端役の様な感じで、マインの方は冒頭の女性からの命だろうが他国に嫁いでいる女王といったところだろうか。
土地(徴税権)を褒賞とするのは正しく封建制だが、この手の作品では稀な印象で面白い。
元康らが強引な手を重ねた結果やっと少々胸のすく展開となる。むしろマインの方が国王と共にやや黒幕染みたり、教皇の意味深なカットが入るなどの点も見逃せない。弓・剣の物言いは第1話の反権威的態度がある為に割合納得感がある。
「(元)奴隷による肯定」というモチーフは槍の言った様な「結局ストックホルム症候群的な心理ではないか」という問題があるが、ここでは第一にラフタリアの方が剣であるという関係性において、また大局的には女性優位だという文化環境によって補強されている。これは作品の「盾」というテーマが上手く働いていて面白い。
最後の食事も良い場面で、それはラフタリアが貰った「温かい食事」のお返しであり、また二人の共通性を示すものでもある。ラフタリアが「精神障害」と言われていた事を考えれば、尚文の「味がしない」というのも単なるテンプレ表現ではなくストレス性の味覚障害だという事だ。
『エイティシックス』の第1話で「これ要するにガンスリですよね?」と思ったので本家? を観ることにした。
この作品の重要な要素として、少女達に与えられた「義体」と「条件付け」がある。特に後者については公社の大人達が少女の自由意志について考える契機となり、彼等はどう向き合うべきなのか思い悩む。
ここには伊藤剛が指摘し、文化庁メディア芸術祭の評にもほぼそのまま引かれている様にキャラクターの人工性に対する批判的態度が読み取れる。(余談だがテキスト論的に言えば「読み取れる」とは単にそう解釈が可能という事であり、作者が意識したか否かとは一切関係ない。)
「美少女と銃」というモチーフ(斎藤環が寄ってきてファロスがどうのと言っても気にしてはいけない。ラカン信者の妄言である)の中でもガンスリは割とシンパよりオリジナルの部類だと思うが、「ブルーアーカイブ」の様な高度にアクセサリー化している銃と比べて何と重々しい事か。それは確かに血を流し人を殺す銃なのだが、ヘンリエッタは「役に立ちたい」と素朴な願望だけで引き金を引くのだ。その鮮烈な対比に「条件付け」の異常性が印象付けられる。
つまるところ公社は端から非倫理的であり、どう思い悩んでも言い逃れなどできない…と言いたくなりもするが、義体研究といういかにも金の掛かる課題にはそれなりに軌を逸した見返りが無ければそもそも取り組まれない可能性も高い。まぁ言っても仕方がないだろう。
「これは条件付けかもしれません」「それでも良いんです」本当に良いのかと言えば、我々は自由主義の下に生きているのだから当然良くはないのだ。彼女達は明らかに担当官に対して依存している。ただそれは生易しい関係ではなく、エルザのエピソードで端的に示されている様に狂気的ですらある。ここには人工性=都合のいいもの、という解釈を超えたテーマ性が示唆されている様に思う。彼女達は確かに他者として息づいている。
最終話、アンジェリカは星降る夜、マルコーとの絆を思い出し、歓喜の歌と共に眠る。それは確かに幸福だろうが、人間の一生とはそれで「十分」と言えるものだろうか? 否と言いたくなるのが現代の感覚であり、だからこそ切ない場面となるのだ。
いつ止まるとも知れぬ義体、消えゆく記憶、死を恐れぬ意志、全てがあまりにも刹那的だ。そしてそれは『風立ちぬ』(ジブリ)の様な敢えて選ばれたものではなく、そう差し向けられたものだ。それでも彼女達は歌うのだが、最終話のその場面に担当官が不在なる事を考えてみると、最初に触れた様な観点とは裏腹にこれは(少なくともアニメでは)あくまでも少女達の物語なのかもしれない。
「チート」がキーワードになっている割には普通に修行したりして、ジャンプ的王道に沿った筋になっている。
正直話としてはあまり面白くないが、問題は主人公達の個性の薄さだろう。
まず太一はアナスタシアを失った一件から結局は殺しも厭わず力を使う覚悟を固める訳だが、その結論はあまりに凡庸(「大いなる力には大いなる責任が伴う」というのは聞き飽きた言葉だろう)で「人を越えた力」には及ばない。王弟の言葉にしても単純な受け売りで碌に咀嚼せずに繰り返し、「犠牲」などと宣う。犠牲というのは結局力無き者の言葉であり、それを超越して全てを救おう(つまりホッブズのリヴァイアサンが如く全ての争いを阻止して和平を促せば良いのだ)ともせずに「人間卒業」と言ってもつまり倫理観を喪失したとしか聞こえない。何を考え、どうしてそう選択したのか? それを描かず人並みな結論だけ述べても何の魅力もないのは当然だろう。
凛については第9話「私は私の意志で飛び込んだ」というのが一番大事なところだろうが、演出が弱く第1話のシーンにおいて全く凛に感情の籠った芝居をさせていないため実感の薄い台詞になってしまっている。癖のない良い子なのは個人的には別に良いと思うが、いずれにしろ内面描写が貧弱で魅力が出ていないのは確かだ。
一番魅力的に描かれていたのはアナスタシアではないかと思う。彼女ははっきりとアサシンとギルド側での二面性を区別して描かれており、収監中の描写も加わることでその転向の決断を強く示唆している。ギャップを利用した内面の演出が上手く働いていると言える。
全体的に言っても「あの方」の情報は碌に開示されず、主人公はただ戦争に巻き込まれ「人殺しも止む無し」という後退した倫理を得て終わる。それを本当に「強さ」と言っていいのか、戦争を止めるという選択はないのか、結局は地位と名誉を得ただけではないか。ある意味で批評性は高い作品。
ただしかしタイトルを考えてみれば、「チート」の不条理さ、千年に一度の才すらも無に帰す圧倒的な力、そうした表象を全く物語に落とし込めていないのが最大の問題かもしれない。