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とても良い


良い

小さい頃大切だったおもちゃって、大人になると昔みたいには夢中になれなくて。楽しかった遊びが役立つこともあれば、楽しいだけでよかったり。最初のハネッコの進化する場面が心地よさそうで心ほぐれました(森の鳴き声に混ざるコダックの鳴き声も)。ゴローンの居た岩場は昔の(もしかしたらイシツブテだった頃の)遊び場だったのかな。アリサはロッククライミングが得意。でもヒトは岩登りはタイプじゃありません。コダックも、水タイプでねんりきはタイプじゃなくて(きっとだから最初から上手くはないんですね)、泳ぎが得意じゃなかったコイキングは他の誰より泳ぐ楽しさを知ってると思います。飛べなくても、ヒトもポケモンもそらをとぶ楽しさを感じます。
言葉にしちゃうと、得意なことでがんばったほうが効率いいとか、苦手なことでも楽しいのが大事とか、むむ〜となってしまいますが、そうならない肌ざわりが好きです。
マダツボミが好きかもと思いました。ディグダがうきわを打ち上げるのにほっこりしました。
ハルのモンスターボールのマドラーに目をひかれて後から見かえして、なんとなくこれは手作りなのかなって思いました(映像内全部手作りなんですけどね。頭が下がります)。



良い


とても良い

 ナタリアから見たレーニャが語られて、これはきっと(今まで見てきたからこその)一番に好きな話になると思いました。ナタリアが持つレーニャの印象はレターナ(レーニャ)自身から見えていたものとは違っていました。ヒーローのようなレーニャに憧れたナタリアは、スピリッツにとっては最初から大人だったナタリアで、ナタリアにとってターニャ(スピリッツ)はヒーローになっても可愛い子で(照れてるスピリッツの全身絵を外枠にしたところ好きでした)、物語に語られることのできなかった世界の見えない深みを感じました。
 テル(シャイ)を忘れていたスターダストにも、テルにとっては一大事だった修行は彼にとってはなんて事のない日々の一幕に過ぎず、彼が話したヒーローとしての矜持(助けたヒーローの背中が丸まってたら、助けさせてごめんなさいと思わせてしまう。そんなことはさせない)は修行相手(仮想敵)の時に見せた姿とは違ったもので(かっこよかったです)、深まりを感じました。
 シャイが帰路、一瞬ひとりになって空に一番星を見て、アマラリルクのことを考えているその眼鏡に一番星が映りこむ絵が、なんともいいようがなくとても好きでした。人の深みを考えていたからか、シャイで人と接するとあせあせしてしまうシャイの、深く人を考える場面が印象に残りました。
 後半の場面はすずめ(記憶あやふや。何かの小鳥)が空をとぶ場面から始まって、ぐっと目をひきつけられました。その後飛行機も飛んで、シャイの体調がわるそうな様子で、心がふわふわしてる感じなのかなって考えました。そんなことを考えていたので、後のアマラリルクの空間で太陽(のような目)が近かったと思いました。テルの家でテルが惟子にお世話されてる間(もうちょっと前、家に着いたあたりからだったかもしれません。すでに亡くなっていることを思わせる(思い出させる)姉の写真か、あるいは弱ってるテルの独白で連想されたのやも)、レターナとナタリアのことを思い出しました。ふたりも、もしかしたらこんな風になれたかもしれなくて、こんな風だったかもしれなくて、と思って、けれどそれは過去を悔やむ気持ちではなくて、だからこそ名前を呼ぶ場面が幸せでした。



とても良い

ストップモーションの中で絵を描かれていくのが楽しかったです。
コダックと同じように藪に頭を突っ込んで(失敗して、迷惑をかけちゃったと思って)、ハルは何か気づいたんだと思いました。
(それにしても画面に映る何もかもがかわいいです)
うまくできなかった失敗をとがめない空間に癒されるものがありました。
遊びはできることが増えることで、未知のところまで飛び出ることなんだって思いました。
「で、また何したらいいかわかんないターンなわけ?」ってセリフにゲームのターン制の名残を感じて好きでした。



全体
とても良い
キャラクター
とても良い
ストーリー
とても良い

ストップモーションアニメーション。全4話。(第1話視聴)
PVのもこもこなポケモンたちにひとめぼれして見始めました。
新米コンシェルジュとしてポケモンリゾートの島にやってきたハルは、(仕事はしっかりしなくちゃと勢いこんでますが)初日をお客様として過ごすことをオーダーされます。何をしたらいいか困惑しながらハルは散策し、いろんな人やポケモンとかかわるうちに、しばられずに楽しむ気持ちを思いだします。
アイキャッチが織物絵でとても好きでした。



良い

 氷が割れた世界に雪が降って風が鳴って、ツィベタの心の創った世界の変化が始まったのがわかって(心には3つの要素があると説明されたことも思い出されてよかったです)、その世界の変わりように目を奪われて、観ていきました。Aパート、Bパートの境目を利用して劇的に、静かに心の世界が開かれたのが印象的で、とても好きでした。
「けど、間違いなく彼は今の世界を壊そうとしている、誰かの夢を歪めながら。
だから、どうかお願い!彼らを止めて!スティグマに世界を壊させないで!」
 この場面で、ツィベタの涙が流れた理由がわからなくて、けれど、直感的にすごく好きでした。色々と考えてみて、今のところの答えは出して見たのですが、そのうち考えが変わるかもしれません。今のところの答えとしては、ペーシャのいるこの世界を愛しているから、そして歪められる誰かの夢を、歪められてその誰かが自分のように大切な人を傷つけてしまうことを思ったからではないかと考えました。
 ツィベタの存在にはおかしなところがあって、というのも回想でペーシャは母レターナが事故で死んだと思っていました。つまり、ツィベタがペーシャの心だけから生まれたとしたら、本当の死の記憶が存在するのはおかしな話です。ツィベタの立ち上げにはいわば地球の心(それがどんなものかよくわかってないで書いています)が関わっているのだろうと思います。
 それを映したものと断定できませんが、ペーシャの目にツィベタが映って、ツィベタが地面に残った氷の鏡(透明な涙のように綺麗で、けれどナイフのような大切な人を傷つけてもしまう形の印象も含まれていて好きです。ほかにももっと多くのものを含んでそうに感じますが、うまく形になりませんでした)に映った場面が、それはちょうど「夢を叶える」(「人が心の奥底で強く願うことを現実の中に形作る」)スティグマの能力を話している場面ですが、印象に残っていました。瞳(心)から瞳に映ったペーシャと同じように、世界(心)から世界に映ったツィベタが成立している感じに見えました。ツィベタの話しているペーシャが強く望んだことと同じように、レターナ(ツィベタ)も再会を強く望んだから、この「夢」が浮かんだと思います。
 二人が夢を叶える場面、大人になってお酒を酌み交わす場面が、白い外枠に囲まれて、動画として止まらずに一瞬として止まるのが素敵でした。雪の白で、空白の白で、幸せな白でした(追記。読み直して火ではないところも素敵かもしれないと思いました。シャイも立ち入れない、本当に二人だけの特別です)。
 ツィベタ(レターナ)がずぅっと前に伝えたかったこと、そのいつかに戻って伝えた言葉は、「こどもにかえる魔法」がみせた奇跡で、本当はその時に既に伝わりあっていたことだったと感じました。この「夢」は本当に夢のような出来事で、きっとこの夢がなかったとしても、ツィベタとペーシャはお互いの思いを了解していたし、スピリッツ(ペーシャ)とシャイ(テル)はお互いへの理解を同じように深めていたと思います。それくらいには儚い、降る粉雪のような出来事でした。それでも、こんな風に物語があってよかったと思います。
……粉雪って書いたら無性に『粉雪』が聴きたくなりました。聴きに、いってきます(「バイバイ」より行ってきますだったって。なんとなくです)。
付記。入る場所がなかったので最後に残します。ツィベタがスティグマのことを思い返していて、手に氷が生えてくるところ(これは手をつなげなくなる拒絶だった、とも)で、心の「記憶」が「感情」(身体)や「世界」に影響を与えているのが出ていると思って、ここでも記憶が刺激されました。
訂正。ツィベタ、ツィペタと書いていました。以前に戻って全て直します。



とても良い

黒い涙について、惟子の涙とのつながりはおもいだせてなくて、そうだったと思いました。
前半の話、ケーキを手にお店を出たところで、あ、と予期してしまって……。覚悟決めるぞ決めるぞ決めたぞ、と相当身構えたのですが……それでもやはりつらかったです(つらい以上に、いっだい……となりました……良い音でしたけど良い音すぎました……)
溶かした氷を身に浴びるのが好きでした。その氷たちはツェペタに至るまでにレターナが涙こぼしていった、多くの人々からもらってきた温かい心も含まれているものと思ったので(前回、ツェベタに操られた孤児院の子が操られながら流した涙に宿る声で、それはおそらくツィベタと同じになるために余分な部分だと思いました。そして、心の力が燃料のようなものだとしたらそれを使えば使うほど、記憶はあっても暖かさを思いだせなくなっていくのかもしれないと考えました)。
これは蛇足で、見当違いかもしれませんが……このつらいAパートを絵コンテ・演出を副監督の方が担当されたことにそれを引き受ける覚悟を感じました。



良い

(すぐ見たいと思ったのでもう1話次を見てから思い出しての感想です)
溶け出す涙に〈余分〉な、おそらくツィベタと等しくなるためには余分な感情が落ちていくのをみて、氷がかさぶたのように思えました。
もしも、氷の力がヒーローのように(もしくはヒーローも同じように)心の力(何らかの燃料)を使って出しているとしたら、思いだせなくなったたくさんの温かな、力が、ずっと近くにあるのになくなってしまうのは悲しくて、それを溶かすことにそれはよいのだろうかと迷いをおぼえて、(転心輪の持つ機能の一つに、心の力を使いすぎないセーフティ機能もあるかもしれないと考えて)、おぼえながら次を見ました





とても良い

 良い……気がすると感じて、もう一度みて、とても良いにしました(2回観た感想です)。とても良い仕事をされている回だと思います。意図的意味を明確に伝えながら、絵の自由さ楽しさも残る、といえば良いでしょうか。アニメ観てるなぁ…と満足した気持ちです。
 楽しさに関しては、話そうとする小石川惟子の心の震えを目を震わせて表現していたのが好き、くらいしか言語化できませんが、そういう楽しいを随所に感じて楽しかったです(後半の話の冒頭から回想へと入るところの空の色や様子がうまく言えませんが特に好きです)。
 丁寧さについていえば、たとえば冒頭から映像に揺らぎを入れて回想ではなく記録映像と分かるようにしていたり、OP明けてスピリッツの目の動きから始めていたり(残っている自身の傷への意識の動線)、シャイと二人で話すスピリッツが笑う際に傷を庇いながら笑っていたり、意味の動線がしっかりしていて話を見やすく(それでいて上のような楽しさが含まれて楽しく感じました……楽しさに浸りつつも意味の動線から脱線しない感覚、と言ったらいいかもしれないです。見やすく感じました)、また伏線的に、見返すと地球が丸く写ったり(敵スティグマの目的を思い起こしました)、説明される前からえびおの後ろ姿が見えていて既にえびおがそのキャラに扮してるのが見えたり、知っていて見るのも楽しい部分もあって、どちらからでも(意味の動線の滑らかさからでも伏線的な部分に注目する意味でも)2回目で見入りました。
 さて、話についてになりますが、サブタイトルの「アンチェイン」がどういうことなのか、説明されません。何が〈鎖〉なのか、どのように解き放たれたのか。どこにも示されず、ただ、置かれたふたつの話だけが示されます。ひとつは組織"アマラリルク"を名乗った敵スティグマのリングについてわかったこととそれを受けた小石川惟子やスピリッツの所感。もうひとつは人気のでてきたシャイが創作のヒーローに扮して行ったトークショーとその顛末です。
 このふたつをつなぐ、「アンチェイン」とはなんだろうと、ふらふらと思考を遊ばせてみて、理解できることがその鎖なのではないか、と思いました。それはきっと敵スティグマの目的と同じです。人々が完全に理解し合うことで、手と手を繋ぎあうことで、平和になる。それは耳にするにはとても良い事で、ヒーローの論理で否定することが難しい事でしょう。裏返せば互いに理解する必要がないことになってしまいます。そうなれば理解しないものに対して、人はどこまでも無自覚に冷淡になれるからです。
 前半の話中、シャイとスピリッツ(ペペシャ)の会話は言葉を重ねながらも微妙に、衣擦れをおこすように意図がずれて伝わります。ペペシャは心配をかけまいとして空元気をみせ、シャイは励まそうとして涙がにじみ、その目論みは互いに失敗します。後半のシャイと男の子ー作中劇(魔女っ子系戦隊アニメ)の女の子ヒーローが好きな男の子ーとの会話にいたっては、最終的にその子は、シャイがそのヒーロー:ゼアルその人だ、という結論に至ります。また、会話のきっかけとなった「シャイは本物のヒーローじゃない(と思う)」ことについても二人の中にあるものは違っています。それでも、シャイとスピリッツは一緒に背負おうと手を繋いで、シャイも男の子と同じようにそのアニメ、シビレボを好きになります(もちろんその好きは男の子の好きとはちょっとずつ違っているでしょう)。
 まとめて書こうとすれば、つづめてしまえば、理解できないことが自由だとか、わからなくても繋がれるだとか、なんだか違うことになってしまいます。もしかしたら、そのうちのいくつかは敵スティグマの思想と同じものになるかもしれません。それにたとえ端的にうまく言えたとしても、やっぱり違うものだと思います。鎖がまとわりつくように感じるからです。だからといって反対に端的に言えないとも言いたくないと思います。そう言い切ってしまうこともまた鎖になってしまうようにも思うからです。
 "アマラリルク"もヒーローも、助けを求める心の声に応じて力をふるいます。その受けた傷が、受けようとする傷が、彼らやヒーローたちとその人とをつなぐ縁なのは間違いなくて、ヒーローもその痛みに感じるところがあるから手を伸ばそうと思うはずです。
 (ふと思い出したので話がずれますがここに挟みます)ペペシャ(スピリッツ)は傷を負いました。外形的にもそうですが、内面の傷についてです。その傷に真っ先に反応して手を伸ばしたのがシャイで、そういうところが好きだと思いました。その直後、他のヒーローたちもみんなペペシャのことを心配していたのがわかって、ヒーローってまさにそう(まさにそうでそう描かれたことが好き)と思いました。
 (話戻って)その痛みを感じるところのつながりを見えるようにしてしまえば、あのリングの示したものと似ているかもしれません。同じ時もあるかもしれません。この〈鎖〉はヒーローも囚われうる、囚われているものと思います。その〈鎖〉がいつの間にか、置かれた話をみているうちにほどけていたような印象がうかびました。





とても良い

 とても良かったです。独特の絵作りが(具体的に指摘できるだけの知識も経験も何もありませんが)熟れて感じられて見ていて楽しく。楽でした。間がうまく取れているように感じられました(見る自分のほうが作品に合ってきたのもあるかもしれません。前回好きというとっかかりができました)。心惹かれる字に導かれて、名前も知らない書道部の人と出合います。……ふと5話のサブタイトルを見て、「灯」(単なる火ではなく)なことがはっと目に映り、そちらに筆を進めてみたくなりました。書き始めた時の予定と変わりますがそちらを感想にしてみます。
 「灯 語源」で検索してみたところ、「【漢字トリビア】「灯」の成り立ち物語」(ライブドアニュース2018年8月19日 11時0分 TOKYO FM+。「感じて、漢字の世界」というラジオ番組が元の記事の様です)の記事が上位にでてきてそれを見ました。漢字の成り立ちは難しいところで深入りできませんが、「灯」の旧字が「燈」で「登」という字が関わっていて面白く思いました。今回は山登りから始まったことを思いだしました。
 「灯」について、記事で、
"燃え立つ炎をのせて安定させ、掲げておくための蜀台の姿を表し、"(参考文献が3冊示されていますが、対応関係から『常用字解 第二版』(白川静/著 平凡社)の記述、もしくはそれを参考にした上での筆者の考えのようです)
 と、炎(火)を安定させる機能の有無が単なる「火」と「灯(燈)」との違いだ、という認識で書かれていて、確かにその通りだと思いました。作中に寄せていえば、シャイが安定して火を出せる様になる過程の話で、まさに「灯」の話だと思いました。これは全く感覚的な印象ですが、「燈」と見ると燃え盛るかがり火のような「炎」を想像したのに対して、「灯」と見るとロウソクのような、もしくはコンロのような「火」をイメージしました。「炎」にひかれて「火」にたどりついたのが、なんだか、良い(好き)。と思います。
 (追伸)前回までの敵の悪意が文房具店のおばあさんを、いつ小石川惟子のように変えてしまうのかとヒヤヒヤしながら見てました。そういうことにならなくて、心底ほっとしました。
 (追記)「毎日ことばplus」(毎日新聞校閲センターの運営するサイト)の「ろうそくに「ひ」をともす…「火」「灯」どちら?」記事(質問ことば解説 2019.03.15)によると、記事では「灯」について新字源改訂新版を引用し、
"もと、燃えさかる炎の意"(孫引き)
 を表した、「燈」とは別字で、
"かなり古い時期(元、明のころ)から同一の意味で使われるように"(毎日記事より)
 なった上で、現在は旧字、新字の関係にある字、のようです。
 「燈」のほうが「明かり・ともしび」(毎日記事)、もしくは「蜀台」(TOKYO FM+記事)のような意味で、「灯」のほうがもとは燃える火の意味(毎日記事)で、直感の印象と逆でした。また、たとえ目に見える火は小さくとも安定したそれが有する力の大きさは不安定な時とは比べものにならないほど実は大きく激しさも秘めている、と考えると、こういう源がこの字にあったと知ったことは、登山者ピルツの起源の激情も思い出し、紅葉山テル/シャイの得た「火」の強さを想えた、この筆の旅の結末でした(無理やりまとめた風をよそおいました)。



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