物語云々の前に、奥行きのある画面がふんだんに使われてて、超リッチなアニメだと気づいてしまった。京都の景観がよく再現されてて良い。あとテレビっぽいナレーションが無くなっていい感じ。
病床に伏す少女の霊が主人公とともに願いを叶える。麻枝の常套的な物語類型である。なのに毎回ただならぬ気持ちになる。一歩間違えれば単なる感動ポルノなのだが、そうならないのはディティールに俺たちが本当に欲しているものが宿っているからだろう。
久島鴎とのエピソードは、おそらく、子供のころのワクワクする体験の再演を描こうとするものだ。だが、俺はその体験の前提として描かれているコミュニケーションのあり方に注目してしまう。羽依里と鴎は、何の脈絡もなく遭遇し、ただ空が青いということを何の含みもなく共感し合うのだ。人間の私的なコミュニケーションはかくあるべきである。これが現代ではどんなに難しいことか。もはやそんなコミュニケーションの存在すら怪しい現実を俺たちは生きている。しかしそれは確実にあったのだと思う。思い出すのは、俺の祖母が甘味を食べるたびに「甘かね~」とただつぶやくことだ。祖母は、純粋にただ甘いという意味だけをつぶやきに込めている。純粋にただ甘いということが豊かなことだった時代の痕跡である。サマーポケッツはそういう感性を薄っすらとだが思い出させてくれる。展開が遅いだとか、そういうことは些細なことであり、その一点のみで観ることができるアニメである。
「アズ、デブ嫌い!」
これは現代では結構切実な叫びなんじゃないか。
少女の内的葛藤に向き合う。このアニメはまさにそういう元来の魔法少女ものをやってくれるんじゃないか。
風子の「風」は風化の「風」だ。
風子の話は「記憶の風化」という現実では緩やかに進行する現象をキャラクターとSFを媒介にして劇的に、凝縮して描いている。
非現実的な物語であり、寓話や隠喩として眺めたとしても、決して人生を描いているとはいえない。人生はこんなにハートフルではない。
にもかかわらず、「これは人生だ」と思わせるようなリアリティと厚みがある。
「風子をおいて、私一人だけが幸せになるなんて。」
「でも僕は、確かめなくちゃ気が済まない。」
麻枝の創造するキャラクターは人間の執着、信仰、あるいは非合理性の具象化であるように思われる。
このようなキャラクター造形がこの厚みを生じさせているのだろうか。
いずれにせよ、キャラクターSFの可能性を感じずにはいられない。続きが楽しみだ。