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難しい最終回だった。
新月は当初の願い通りに魔力を消し去る。その決意は美しいが、どうしても新月は本当にそれで良いのかと気になってしまう。
この物語の中で新月の心理がどう変わったかと言えば、満月により彼女の秘された願いが叶えられた事だろう。確かにそれで新月は救われたかもしれないが、しかし本当にそれで悔いなしと言えるのか。「やりたい事はたくさんあります」一人ではできない事もたくさんあるんじゃないのか。
魔力と対立する価値として自然主義的な世界賛美がある訳だが、この成長を止めて混沌を極め続ける(バブル崩壊後、また世界的分断の時代たる平成以後の世代にとってこれはある程度共通認識ではないかと思う)世界に照らしてその美しさを唯々諾々と信じるのは難しいところがある。魔法少女的な文脈において魔法自体の否定によってそのテーマ性を更新しようとしたのだとしたら、あまり成功したとは言い難いかもしれない。
ただはっきりしないのが最後の場面で、この転校生は一体誰なのか。新月の表情や話の流れからすると満月が「ただの人形ではない」→この世界に残った、と読んでも良い気がする(人形ではないというか人形から発展したといった言い方なので微妙だが)。そうすると新月は満月の為に魔力のない世界を願った訳で、話がかなり違ってくるが……。難しい。その内他人の感想も聞きたいところ。
「脚なんて要るか!」水晶のキャラは最後まで素晴らしかった。悠木碧っぽい声のやばい女は何人かいたが(オーバーロードのとか)彼女はやや異なった雰囲気でまた良かった。



「悪いに決まっているでしょう」「千年経っても何一つ変わらない」水晶の魔術師に相応しい人間への思想が覗く。これはマギアコナトスの意思というよりは彼女なりの千年間見てきた事への解釈なのではないか。
「私は新月ちゃんの思いの結晶なんだよ」そう、創られた者はそれ故に存在理由を予め持っている。「本質が実存に先立つ」のだ。
満月にほぼ主導権を握られる形となった新月だが、彼女亡き今果たしてどう戦うのか。



とても良い

新月の願いは「もし力があれば」などと考えてしまった事への戒め、それにもかかわらずマギアコナトスは彼女の深い心理から満月を生み出してしまう。これを弱さと言うのはあまりに過酷だ。
「なくならないんだよ」「生きてるってこういうことなんだって」高校生にしてこうした論理で死を受け入れる事がどれほどに辛いかは想像を絶する。(弁当はやはりそれでいいのか…? と思うが)それでも満月は新月の願いを選んだ。こんなに辛い話があるか。



とても良い

寧々と同じ様に勝ち確の流れから掌返しを喰らう九音。後半の鬱々とした雰囲気は素晴らしいが、特に異様と言う他ない水晶の語り、折れ曲がるどす黒いシルエットは強烈だ。人間そのものに対抗心を持っておりいよいよ本当に人間でない可能性が高まる。
細かいが寧々のめちゃくちゃに行儀の悪い坐り方が印象的。
満月は戦う理由を新月に見出していただけに彼女に頼る事もできない。「生きてもないのに!」聞いた事のない荒げた声が悲痛だ。(私は本質より実態を重んじる主義なので、その痛み、感情を感じた事、そう思えた事だけは信じて良いと断言したいが)実感としてその身体はどうしようもなく人間で、その矛盾が彼女を苛む。



とても良い

姉の真意に気づいて水晶を圧倒する九音、ピアノを背景にした激闘が美しい。ここまで効果的なピアノ劇伴は『ダンタリアンの書架』(作品世界に合わせてクラシックサウンドで統一されていて最高)くらいしか記憶にない。(ピアノ主体でもないがゆるゆり三期の第8話冒頭も素晴らしかった。)
「空っぽ」を克服したかと思えば「もの思う人形」、満月へのあんまりな仕打ちである。アルマノクス(人形)を操る物であった糸が自分に見えるという演出は何ともグロテスク。
「傷を全て抱えていけ」といった事を水晶が言っていたが、これすら満月の受け入れるべきものなのか。「何もないを背負っている」ならば自由意思さえも。



徐々に超人的な精神攻撃スキルを見せる水晶。「戦いが始まる」と言うが流れからすると九音も脱落しそうで恐ろしい。
「何もないを背負っている」第2話で示された満月の理由がここで再び表明されるが、今度は同じ痛みによって新月と通じ合う。前々回の「自分のことが嫌い」という話からすれば、人の願いとは自分自身の為のものだ、あるいはそうあるべきだという事かもしれない。その正否は姉の為に戦う九音の命運が試金石となるだろう。
魔術キーボードや寧々の主観的な聴覚を表現する演出が良い。



とても良い

「努力したことは一度もない」才能ゆえの因縁と向き合う新月、マギアコナトスに愛されなかったがゆえに「壊れて」しまったアンナ。鷲巣巌の様な台詞を吐きながら(イカれててマジで最高)新月を蹂躙するアンナだが、結局はその才能の前に敗れてしまう。哀しいのは最も追い詰めた場面でさえ「どうしてあなたは」と新月の意識はマギアコナトスへ向かっているらしき点だ。サブタイトルも「ミス・ルサンチマン」と手厳しい。つまりアンナはルサンチマンを宿す側、決定的な「弱者」と位置付けられている。この類稀な激情の女が運命に敗れ散っていくのは何とも惜しい。



「ストーキングという名のライフワーク」ではないが
他の参加者に申し訳なく思う一方で後悔はしていないと言い、嬉々として戦う喜びを語る満月。戦いに魅入られたかのごとき語り様で新月の「操られている」という説に不気味な説得力が宿る。
新月のかつてのアンナの優しさを思い出して真実を告げる決心をするが、それがアンナの決定的なアイデンティティを破壊してしまう。新月に家族を奪われた(と思い込んだ)中で彼女に勝つことだけがアンナの希望だった。これはグランベルムに魅入られているという意味では満月と並行しているのかもしれない。めちゃくちゃに憎い女の優しさで自分が思い上がってるだけだったというきつ過ぎる展開で良い。



「引っ込み思案」を克服して真っ向勝負を挑む寧々だが、満月の「いや!」でその意志は打ち砕かれる。フラッシュバックした場面からして「いや」というのは透明な自分には戻りたくないという拒否だろうか。しかし話の流れから言えば自分の殻を破った寧々が一矢報いるのを期待する場面であって、寧々の唖然とした反応は視聴者の気持ちと重なるところだろう。寧々の過去を垣間見てようやくグランベルムが願いの潰し合いであることを悟る満月、心の追い付かないまま勝ち続ける彼女の異質さが浮かび上がる。



遠距離攻撃で圧倒する寧々だが火力的に決定打を与えられない。早々に居場所を感知されていて(異質っぽい水晶と感知系の九音だから誰にでもという訳ではないが)遠距離のアドがあまり活かせていないと言える。
水晶は相変わらずだが私服が妙に落ち着いたチョイスでかわいい。
現実側で偵察する寧々、しかし最終的には身元を明かして正面に立つ。これは母親の境遇に対する反発であると共に、新月が語る様な旧来の魔術師の薄暗い宿命の否定でもあるだろう。



アンナの激情が徐々に説明されると共に寧々や九音の理由も明かされる。新月が今回はビンタを受けたのは当てつけの様な場面になってしまった申し訳なさか。
「意志を強く」とは言うが具体的にどういうものかは明らかでない。「イメージするのは常に最強の自分だ」?



とても良い

冒頭、こういった異常な状況で平静にしている人間というのは何か「強さ」を感じさせてよい。警察が来ている場面もキャラがこの世界(また人間関係)に根付いて生きているのを示していて丁寧だ。(セカイ系的な「向こう側」の世界の感覚とは対照的と言える)
満月は「私には何もないから」、何者かになるのではとグランベルムへの参加に希望を見出す。こうした心理は美少女バトルロワイヤル系の大元にいる鹿目まどかと同じと言ってしまっても良いものだが、重要なのは新月がまどかにしばしば言われたのと同じように「そこまで自己実現したいのか」と問う点だ。命を、存在を懸けても何者かになりないのか? 満月は「ほんとにないんだよ」と切実に訴える。ここには『まどか☆マギカ』を丁寧になぞりながらもその先を目指す姿勢が現れている様に思う。
また「別に周りに悪い人がいるわけじゃない」というのも別に誰かを倒してめでたしめでたしとはならない「どうにもならなさ」を示す重要な台詞だ。『魔法少女育成計画』などはバトルロワイヤルの形でありながらこの点で大きく性質を異にしている。



良い

他人の為に弁当をいくつも作るというかなり闇っぽい情報の開示から物語が始まる。(普通に出費だけ考えても馬鹿にならない筈だ)
魔法駆動のロボットが現れるが等身が低くあまり雄々しい感じではない。
話としては美少女バトルロワイヤルの様式だが、弁当を食べる場面は「日常」へのはっきりした意識が見て取れる。(個人的に『まどか☆マギカ』の革新は日常系の読解力に悲劇をぶつけたところにあると思っているのでこれは重要な点)



犬の様にドーナッツを貪る忍野忍(まだ命名されてはいない)。「信仰」などにより超常の存在を人間原理的に説明するのは今やありふれているが、これはその先駆けの一つだろうか。
忍野自身の言葉を引用して干渉を渋る阿良々木に対して、忍野の訝し気な視線が刺さる。口では軽薄にしつつも「お人好し」な忍野の性格が現れた場面だろうか。



つばさ「ファミリー」。今まで怪異を示していたところに「家族」なのだから強烈だ。



死出の鳥、偽物なだけの怪異。最後にして最も偽物そのものの存在として阿良々木月火が立ち現れる。
「ドキドキしない」事からたとえ偽物でも月火は妹に違いないと確認する暦。どうも彼にとっては欲情を超えたところに真に親密な愛があり、しかし超えたからといって不要なのではなく「いくら触ってもいいだろ」といった帰結になる様だ。(何故?)
影縫は一般常識の面から偽物であることの悪を説くが、阿良々木は悪を受け入れる。影縫の「正義」とは一般規則を個別の事例に適用する演繹的な態度だが、今回の場合は嘘(偽物)の倫理性など彼等には問題にならなかった。そこで影縫は悪の中から生まれる価値、かつての貝木の主張の真意を悟る事となる。
ただ単に偽物である事を肯定するのではなく、そこに宿る意志へ価値を置くのはかれんビーと共通していて、『化物語』から続くストイックな思想が見えるところだろう。



ここで最後の「偽物」が現れる。
辛気臭くミスド喰ってる貝木の画が妙に面白い。



歳の差はともかく結婚するなら八九寺というのは一理ある



前回の「惚れてる」を汲んでいるのだろうが歯磨きで互いを意識する様になるという屈指のイカれエピソード。八九寺と並んで歪んだ親愛の形態が現れている。



偽物がそれでも本物に匹敵するには己の弱さを受け止めて確固とした意志を持つしかない。これは『化物語』におけるメッセージの敷衍だろう。貝木は「詐欺師」と自己を規定するほどに偽物であることを本気で背負い込んでおり、手を引くが別に敗北などしない。しかし貝木が「劇的」であること、消費的かあるいは刹那的な生を求めるのに対して戦場ヶ原は自分のこれまでの人生を丁寧に見つめる。あるいはその「つまらなさ」も偽物の受け止めるべきものなのだろうか。



神原との一件でセクハラを自省し自制した阿良々木だが、八九寺はそこに親愛のコミュニケーションを見出していた事が明らかになる(それでいいのか)。
戦場ヶ原の貝木への複雑な感情の一片が垣間見える。「悪意」そう、「どれほどの違いがある」かと言えばそこだ。



とても良い

マルクスの指摘した物神崇拝の権化、倫理なき合理主義。貝木のこうした存在性を考えると「教訓」の口癖は「意識高い」人間の戯画化だろうか。詐欺師が契約自由の原則を振り翳すなど詭弁もいいところだが、彼の立場は確固として語り口は魅力的ですらある。「どれほどの違いがある?」勢いのまま乗り込んだ火憐はこの問いに答えられず、むしろ再分配としての詐欺(『老人喰い 高齢者を狙う詐欺の正体』によれば特殊詐欺の現場でも吹聴されている論理らしい)が尤もらしく聞こえてしまう。



「正しいことをした」羽川の言葉により阿良々木暦の「ごっこ」呼ばわりは自分へ反射する。「自分の弱さを受け止めなければならない」前回と較べると自分の正義の「偽物」さに正直に見える。
羽川が何気なくベッドでごろごろしてるが、千石の部屋での阿良々木の様子を思い出すと随分奔放だ。
貝木の専門家としての「偽物」さは前回に引き続いてここでも指摘されていて、「偽物」概念の別の面も見せている。
長命を示唆する忍は「添い遂げられる者は自分しかいない」とでも言いたげだが、そこで己を殺してみないかという話になるのが興味深い。この先の余生には興味など無いから暦の美しい傷跡にでもなってやろうというのか、吸血鬼化を清算して赦されるを良しとするのか、それとも単に存在を意識していろという事なのか。



貝木泥舟初登場。血色の背景、勿体ぶって胡散臭い劇伴、全てが人間離れした凶兆を漂わせる。
阿良々木の「正義マン」という言い回しへの反応には妹達の「ごっこ」とは違うという意識が滲む。



千石必死のアプローチにもかかわらず「どうしてだろう」と何処吹く風。阿良々木火憐の「じゃま!」は非常に動きがあって良いカットだ。
偽物本物と言う前にセクハラの害など体感するまでもなく分かっていてくれ



阿良々木月火が終始妙に色っぽく描かれる。兄の方は相変わらず八九寺に異常行動。羽川は明らかにアダルトチルドレンを意識したキャラ造形だが、この八九寺もかなり出来た人間である。



「たかが数ヶ月の恋愛のことで」自分を軽んじるが故に阿良々木はここで珍しく羽川の苦悩を見過ごしてしまう。しかしそれは「たかが」ではないし、また阿良々木自身も恋を知り、そうして初めて阿良々木は誇りを持つ。まぁそれでも「羽川のために死ねるのなら」なんて言ってしまうのだが、そこで戦場ヶ原の首輪が効く。「それはただの言葉だ、お前の気持ちじゃニャい」ここでようやく忍野のテーゼを乗り越え、阿良々木は正面から周囲との関係性に向き合う。
「弱さだ」なんて他人に言い切るストイックさは健在で、まぁこれはレジリエンスとかの概念を知っているとキツ過ぎないかと思うところだが、こういうところへの批判は続編の中で様々に批判されていく部分だったと思うし欠点と言う程ではないだろう。(そういう意味で個人的には千石とか老倉とか阿良々木に都合の悪いキャラが好きだ。)
猫は「馴れるな」なんて言いつつ実に丁寧にお膳立てをしてくれて、流石羽川の別人格と言うか良い奴だ。



前半では電話の受け手からの描写でそれぞれの日常生活が見える。戦場ヶ原は羽川には色々思うところがありそうに思えるが、意外に友人として畏敬の念が深い。
アホそうで含蓄のある事を言う猫。



まずセクハラをするなマジで(ライトノベルに反映される読者の性欲の歪な翻案なのか? しかし作品全体というより八九寺に固有なのが実に謎だ)
「お前との友情よりも、お前に恩返しをすることの方がずっと大事だ」阿良々木の羽川への深い尊敬と自己犠牲の姿勢が滲む。



とても良い

「これで全部よ」
つばさキャットといいつつSTAPLE STABLEで始まり戦場ヶ原とのデート回。前半では父親の真後ろで好き放題する戦場ヶ原の恐るべき度胸が見られる。
自分を愛していない阿良々木は「一人で助かっただけ」と忍野の言葉を引用する訳だが、「必要なときにそこにいてくれた」事が重要なのだと戦場ヶ原の父は言う。忍野はドラえもんの様に万能っぽくても思想としてはこうして相対化されている。関係性というのはそう身構えなくてもいい、そこにいるだけでももう始まっているし、そこに既に価値はある。
「全部」というのは『鋼の錬金術師』のラストでもそうだったが、理屈抜きの愛を感じさせて力強い。戦場ヶ原ひたぎの美しさ、捻くれている様で真直ぐな心がこの回に詰まっている。



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