眼鏡をかけたら頭がいいという最高に頭わるい発想が最高に好きでした(エンディングも直感好きでダウンロードしました)
未来の悪魔の目ん玉だけが浮かぶ絵がとても悪魔で好きです
今日は訓練終わりかやったー、と。思ってしまったので私も1敗です
良い最終回でした。ジョブ子の送別を奇にてらうことなく、しっかりと描いていたのがすごく好きでした。
静かになったふたりきりの部室で、せるふとぷりんがブランコをDIYします(部屋と同じで一度散らかると、もう少しくらい崩れても変わらないよね、と心理的なハードルが下がるのはあるあるで、早めに部室の補修をするんだ!と思いました。閑話休題)。部長や先生、大人に頼らないで2人だけで作業が進んでいくことに確かな成長が感じられました。何より、この2人の「秘密基地」でこの物語が閉じられるのが、何かすごく良いと思います。
最後の最後、ツリーハウスと飾られたみんなの写真だけが示されるのも素敵でした。いつかみんなが卒業していってもこのツリーハウスが残るのが。
(追記)なんとなく、せるふの怪我の消毒と絆創膏、板をはがされた部室にかけられたビニールシート、(前回)ボルトを打ち込む際にかけられた防腐剤が似ていると思いました
順風満帆いい話って見てたら、屋根の材料が足りない!ところから強引な調達に笑いました。家を建てるのは本当に大変で、特に土台は本当に本当に大変だと、こうしてツリーハウスが作られていくのを見ていても、改めて思います。そしてふと、この地域の気候について思いが至りました。4月から8月の春から夏にかけてに物語が限定された理由です。部室を作った初代DIY部や維持してきた歴代の部員の苦労がしのばれる心地がしました。それをよしっと剥がして再利用するのも面白さがありますし、部長が部室の配置を何度も作り替えていたように、そういう精神が引き継がれてきてもいたのかな、なんて、良い作業風景が多くゆったりと思考を巡らす時間のある回で気分よくみることができました。
(間違えて第10話を先に視聴)先に次話をみて、悪くなかった気がします。とある場面で来たなって思えて面白さがありました。
今回のAIクラゲの挙動はさすがにいや…と思いましたが、クラゲが面白い回でもありました。
ぷりんのパーソナルコンピュータの画面のモチーフがクラゲで、あ、ぷりんがクラゲが好きなのか!と。それで(第4話の回想などで登場した)ウインドチャイムがクラゲをモチーフにしたものだったと気がついて、急に景色に色がついたような、不思議な感覚になりました。
(間違えて第9話より先に視聴)好きな回でした。
ずっとガタジョと呼ばれていたので「ガタガタ」に今回ようやく気づきました(それはさておき)。
せるふの予想外だったぷりんが好きでした。集めた材料がなくなってしまう事態に、せるふは悲しんで呆然としていると思ったら楽しい空想に夢中になっていました(せるふは悲しんでいなかったわけではなく、不器用で沈み込むには多くの失敗がありすぎて悲しいから楽しいが近いだけと思います)。それに直面してぷりんがぷりん(ほっぺた)してたのがとても好きです。
ぷりんはせるふのことをよくわかっているというキャラクターですが、どちらかといえばこちらの、予想外の関係が2人の関係だったのかな?と思います。それが好きでした
(第9話感想後追記)せるふがクラゲを触ってしまったのはぷりんとのウインドチャイムを思いだしていたからかもしれないと思いました
みんなの持ち寄ったアイデアから、せるふの見せたい描いたものとみんなで作れそうだと考えたもの、実際に作れるもの。空想と想像と設計の違いが面白かったです。ぷりんが設計に(設計ができるといったのに実はできなかったジョブ子の手伝いで)クレジットなしで関わり始めるのも面白い関わり始めでした。だいぶ期間が空いてしまってうろ覚えですが、秘密基地を作ろうと言い出したのはせるふだった気がします(第4話確認したら「ツリーハウス」を提案したのはぷりん、「(木の上に)秘密基地」を作ることを提案したのは回想のせるふでした)。作りたいと思えるのはとても大きなことで、本当に役になってないなんてないと思います。それでもせるふが「役にたてていない」「役に立ちたい」と思って何かをしようと思うことは、すごく大きな意味のあると感じて、それが印象に残った回でした。
設計ができるといったのに実はできなかったジョブ子もやはり、作りたいと思えることはとても大きなことで、それがぷりんを動かしました。ジョブ子のそれは母との制作の思い出でしたが、第4話を少し見返して、ぷりんはその時のジョブ子にせるふとの重なりもみたかもしれないと思いました(この場面を見た最初の印象としてはどこか宇宙を思わせる窓の外だと思いました)
素敵な、とても素敵な作品でした
編み上げられた布は、子は、家の壁は、樹木の年輪は読み取れる人にだけの"言葉"となるでしょう。布はその布の民に、子の皺は親に。その"言葉"は言葉を超えて多くのものを識る人にもたらすのでしょう。灰の下での別れの場面で、言葉でしか伝えられなかった、言葉の民の、母の子の、エリアルの伝えきれなさが、伝わりきらなかった母のエリアルへの思いが(私がそれを言葉として表されなくては読み取れなかったことにもどかしさも感じました)、その場面が見終えた今は思いだされました。
言葉の民の端くれとして、そんなことを思いました。