サービス開始日: 2017-07-17 (3375日目)
サブタイトルが「どうしてこうなった」でも良いのではと思える最終話。
久しぶりの本格的な戦闘シーンは、緊迫感のあるターニャの戦いぶりに引き込まれ、戦闘曲が好みなのもあって純粋に楽しめた。
ルーデルドルフにとって、真実を知らないまま最期を迎えたことは、せめてもの救いと言っていいのか、それとも、真実を知ることができなかったという意味で残酷と言っていいのか、複雑な気分になる最期だった。
ゼートゥーアがルーデルドルフの後釜に収まり、戦争の出口に向かうのかと思いきや、まさかのイルドア侵攻へ。
ゼートゥーアとルーデルドルフは、目的こそ同じでも手段が異なったために、ルーデルドルフが排除されることになったはず。
それなのに、結局はルーデルドルフが進めようとしていたイルドア侵攻が始まり、見ているこちらも「どうしてこうなった」と言いたくなる展開だった。
ルーデルドルフの死は無駄になったとは思いたくないが、ゼートゥーアが何を考えているのかが気になる。
権力を得たことでゼートゥーアが変わったのか、それとも存在Xの仕業なのか、あるいは、ゼートゥーアはイルドア侵攻そのものに戦争の出口を見いだしているのか。
いずれにしても、続きが気になる展開だった。
ミミとシーナが、お互いがお互いを大切に思っていることを確認し合い仲直りしたのは、素直に良かったと思える展開だった。
サブタイトルの「わたしのままで」は、シーナが「でも、やっぱりミミのやり方に賛成はできない」と言ったことを表していて、
仲直りするために自分の考えを曲げるのではなく、シーナはシーナのまま、ミミはミミのまま、お互いの考えを尊重し、受け入れていく、そんな意味合いが込められているのだと感じた。
それはそれとして、セイランとアリの喧嘩が、喧嘩と呼ぶほどのものに感じられなかったのは、ちょっと微笑ましかった。
お互い、少し拗ねただけのようにも見えたが、逆に、あれを喧嘩と呼ぶくらい二人の仲が良かったということなのかもしれない。
ローワンの言う通り、茉里を刺し貫くことで光は現れた。しかし、それはララ自身が本当に望んでいたものではなかった。
結局「本当の愛」を見つけ、人魚の世界に光をもたらすことは、ララにとって周囲から勝手に期待された役割に過ぎず、本当の願いは「茉里のいる世界にいたい」ということだったのだろう。
つまるところ、『さよならララ』とは、周囲からの勝手な期待から抜け出し、自分が生きたい明日を選ぶ、エゴの物語だったと言っていいのかもしれない。
この作品を見ていると、「本当の愛」とは何なのかを考えてしまう。
実際、自分も「本当の愛」は単なる恋愛ではなく、もっと大きな意味での、すべてを包み込むような愛なのだと予想していた。
なんなら第8話の感想で書いたように、本当の愛にたどり着けば物理的に存在しなくなり、人魚の世界を照らす光となって、人魚の世界を愛し、命を与え、守る。そんな存在へと進化するのではないか、とまで考えていた。
しかし、視聴者としてそういった「本当の愛」の在り方を想像すること自体、愛とはこういうものであるべきだと、ララに押し付けることだったのかもしれない。
ララ個人の選択には納得できる。
一方で、ローワンたちは徐々に光を取り戻しつつあるとはいえ、元の人魚の世界は復活せず、ローワンの人間に対する考えも変わらない。結局、人魚の世界が抱えている問題は先延ばしになっただけ、とも受け取れる。
これはララが自分の望むものを選択した以上、当然の帰結なのだろう。現実的な決着と言えばそれまでだが、少し物足りなさを感じてしまうのも正直なところだ。
茉里が大事なのはもちろん、家族も、出会った人々も大事。人魚も人間も関係なく、すべてを選びたい。
そんな欲張りなエゴがあってもよかったのではないか、と思ってしまう。
名前のない上級生などの謎を随所に散りばめ、それを終盤に向けて回収しながら、魔女の起源、名塚底根、ワルプルギスの夜の正体といった新しい要素も上手く織り込んだストーリーは、見ごたえがあった。映画館で見る価値は十分にあったと個人的には思っている。
ただ、残念に思った点もある。
個人的に『まどか☆マギカ』は、まどかとほむらの物語だと思っている。
TV版は、まどかが全ての魔法少女を救う、博愛と自己犠牲の物語
『叛逆の物語』は、ほむらが円環の理からまどかを引き離す、エゴの物語
だと考えている。
円環の理から引き離されたまどかは、ある意味では、自分の願いを捻じ曲げられたとも言える。
そのため、『ワルプルギスの廻天』では、まどかがほむらのことをどう思っているのか、という点を個人的には注目していた。
しかし、そこについての描写は非常にぼんやりとしていたように感じた。
一度しか見ていないため、見落としがあるかもしれないが、最終的にまどかは、ほむらに感謝しつつも円環の理へと戻っていったように見えた。
個人的には、もっとまどかとほむらが直接対話する場面を見てみたかった。
まどかは円環の理から引き離されたことをどう思っているのか、本当に円環の理へと戻ったのか。そこをもう少しはっきりと判断できる描写が欲しかった。
続編があるような終わり方だったので、その辺りは続編で描くつもりなのだろうか。
続編はあってもいいのだが、『叛逆の物語』から13年は流石に長過ぎる。やるなら3年くらいでお願いしたいところである。
非人間的(インヒューマン)とされる殺し屋の、人間味のある部分を描く作品として興味を持った。
話自体は、つまらないとまでは言わないが、全体的に淡白に感じられてしまった。
作品の構成は、最後の「アナザースカイ」以外は1〜2話で完結するオムニバス形式。
そのため、キャラクターに対する感情の積み上げが薄く、感情移入しづらかったことが、ストーリーを淡白に感じた要因の一つだったのかもしれない。
例えば、話を追うごとにコンシェルジュのどちらかの過去に迫っていく、といった展開でもあれば、より興味を惹かれた気がする。
もっと言えば、各エピソードに登場する殺し屋の生き様や、殺し屋としての哲学が生朗や沙羅の価値観に影響を与え、二人自身にも変化が生まれていく。そんな展開があっても良かったのではないかと思う。
ポテンシャルを感じる作品ではあるので、そこに期待して、2期も見てみようかと思う。
相と心、性格も漫画へのアプローチも違う二人。
部屋全体が明るい相と、デスクライトで手元だけが明るい心という描写にも、それが反映されていたのは印象的だった。
そんな二人が合作して、コミティアに参加することに。
合作を通して相は、これまで自問自答していた漫画制作から、他者と意見を交わしながら漫画を制作するスタイルへと変わり始めたのかもしれない。
自然とお互いを下の名前で呼び合うようになった二人は、関係性も深まったように見える。
自問自答の相手でもあったポコ太の存在が希薄になっていくのは、その結果なのかもしれない。
手島先生が七からプレゼントされたノートを前にしていたシーン。
一瞬、相と心に触発されて、手島先生が再び漫画を描き始めるのかと思った。
しかし、転がる椅子、ひび割れた受賞の盾、泣き叫ぶ声……といった回想シーンが描かれる。
手島先生には、まだ明かされていない大きな挫折がある様子。
二人で描くことで、一人では描けなかったものが描けるようになった相と心。
一方で、一人で漫画を描き、やがて漫画家を辞めてしまった手島先生。
手島先生の過去も気になるが、相と心の二人の姿が手島先生に何らかの影響を与えるのかも気になるエピソードだった。
今回のエピソードは、お互いに傷ついてほしくないという「無垢」な願いが、二人の衝突を生んだエピソードだったように思う。
ミミは、シーナには危険な戦場に行ってほしくないし、授業といえども危険な目にあってほしくない。
一方のシーナは、ミミがひどい戦い方をさせられていることが我慢できない。
二人とも、相手に傷ついてほしくないという気持ちでは一致している。
それでも二人が衝突してしまうのは、ミミもシーナも、お互いを大事に思うがゆえに、自分の望みを相手に押し付けてしまっているからだろう。
ここで思い出されるのが、アリの存在である。
アリは、本音ではセイランに戦場へ行ってほしくなかった。しかし、それでもセイラン自身の意思を尊重し、戦場へ送り出していた。
相手を大事に思うことと、相手の選択を尊重すること。その二つを両立させていたように思う。
「ミミとシーナ」、そして「アリとセイラン」。
ここに来て、二組の関係の対比が浮かび上がってきたのは興味深い。
もちろん、ミミもシーナも、アリのように振る舞えばいいと言いたいわけではない。
ただ、二人の衝突を解決するための一つの在り方として、相手の意思を尊重するという選択肢はあるのだろう。
ミミとシーナは、お互いに相手を大事に思っているが、まだ相手を大切に思う気持ちを、どう伝えればいいのか分からないでいるのだろう。
「相手を大切に思うこと」と「相手の選択を尊重すること」。二人がこれからどのように互いの気持ちと向き合い、関係を紡いでいくのかが気になってくるエピソードだった。