サービス開始日: 2017-07-17 (3320日目)
ルカはララの正体が人魚だと知ったうえで「ララがララやから一緒にいたい」と胸中を明かしているが、
それは男女の恋愛にとどまらず、種を超えた愛にも見える。
これまでを振り返ると、
父が最後の光を託しながら残したメッセージ「お前を愛している」:家族愛
茉里の「アホでおもろいやつは好き」:友情としての愛
ルカの「ララがララやから一緒にいたい」:恋愛・種を超えた愛
というように様々な愛のカタチに触れてきている(カテゴライズはあくまで個人の意見)。
あまり見たくはないが、次にララが触れる愛のカタチは姉妹の愛憎劇だったりするかもしれない。
リサの「手段はまだある」というセリフや、花火大会中の誰もいないリサの部屋の描写がなんだか気になっている。
それはさておき、いろいろな愛のカタチに触れていくララ。最終目的は本当の愛を探すこと。
個人的な感覚でしかないけど、「本当の」と付くからには単なる「恋愛」や「家族愛」「種を超えた愛」といった
カテゴライズされた愛のどれか一つを指しているとは考えにくい。
もっと根源的で、普遍的で、あらゆる愛を内包するようなものを見つける必要があるのかもしれない。
稲子が「結婚したくない」「杜氏になる」と決意を固めたことは一歩前進に感じた。
ただ、せっかく決意したなら父親と向き合わなければ問題の解決にはならず、なんのための決意だったんだろうか。
稲子の逃走は2話で描かれた蔵からの脱出と同じような展開に見えた。
背景の説明がないためか、この逃走に限らず、喜八の人間不信や暗所恐怖症、健吾の思わせぶりな言動、洋輔の電機目録と清六に対する固執など、
全体的にシチュエーションが異なるだけで、同じことを繰り返しているように思えてしまう。
ケイトパパとの対面で物語の進展に期待したいところだが…。
表面的には種を超えた親子の感動ドラマのように見えるが、
その奥には「命の尊さ」と「命を扱う難しさ」が内包された物語だと感じた。
この映画を見て実際に起きた事件を思い出した。
動物の愛護活動を行っていた人が、自身の管理能力を超えた動物を受け入れた結果、
多頭飼育崩壊を引き起こし、衛生環境の悪化や異臭問題で周囲とトラブルになった事件だ。
この事件と、母竜が卵を拾い育てる姿が重なって見えてしまった。
なにも母竜が安易に卵を拾ったことを批判したいのではない。
救える命があるのならば救いたい、という感情は至極真っ当だし、素晴らしいことだと思う。
しかし、命という重みが、さまざまなバランスを崩し、押しつぶしてしまう。
作中でハートは不気味がられ、殺されそうになり、最終的に捨てられることになる。
結局、母竜は群から離れて暮らすことを選択するが、これこそ命の重みゆえの結果なのではないだろうか。
なにが正しく、なにが悪いかという問題ではないのだろう。
それは終盤の母竜とバクーの対話にもよく表れていた。
肉を食わないと生きていけないハートをどうするつもりだったか尋ねられた母竜は、
たとえ自分が食べられても、ハートに生きてほしかったと訴える。
しかし、もしそうなればハートは母親を食い殺した苦しみを一生背負っていくことになる。
かといって、母竜が育てなければハートは生きることさえできなかった。
この母竜とバクーの対話に、誰もが納得できる「正しい答え」を出せる人がいるだろうか。
正解がないからこそ、命を扱うことは難しく、そして尊いのだと思わされた。
多頭飼育崩壊の例に限らず、命に関わる問題に直面することは現実にもあるだろう。
そのとき、自分はどうすべきなのか。
そんな問いを投げかけられた作品のように感じた。
毒を取り除き信頼を得ることで、逆に猜疑心という名の毒を流し込んでいくシタラの戦略と
一筋縄ではいかないボラクチンの底知れなさが印象的な回だった。
ラストのボラクチンがドレゲネだけを呼び出したシーン。ボラクチンの大きな影がユラユラと揺れている様子は、ドレゲネの不安の大きさと心の動揺を表していたように感じた。
このタイミングで入るサブタイトル「大カトゥン ボラクチン」も絶妙だった。
「シタラ、もしかしてボラクチンのこと勘違いしてない?」という視聴者の胸騒ぎとドレゲネの不安をシンクロさせ、
同時に、これがボラクチンが大カトゥンたる由縁なのだと感じさせる、演出だったのではないだろうか。
ボラクチン役のくじらさんの妖しい声音も雰囲気を引き立てていたと思う。
シタラが打った一手に対し、ボラクチンがどういった手を返すのか、続きのストーリーが非常に気になる展開だった。
シュールな笑いがジワジワ込み上げてくる作品。
小手先でなんとかしようとして因果応報を受けたり、食欲と感情で葛藤したりと、
行動の結果が自分に返ってくる、なにかを得ればなにかを失う、ということをブラックジョークを交えて上手く描かれていたと思う。
3DCGでセリフはないが、表情や仕草で感情が伝わってきたし、心情面からもキャラクターに人間味が感じられ楽しめた。
コミカルに描かれていたララと現代社会の邂逅に対して、悲愴感のあるリサの過去が対照的だった。
サブタイトルの「わたしを照らす光」は話の内容からすると、リサ視点のものでコータのことを指しているのだろう。
が、あえてララ視点で「わたしを照らす光」(支えてくれる人)を考えてみると、
茉里はじめ大津家の人々、ひめか、バイト先の人々、などたくさんの人が浮かんできて、
やはりララとリサの対照的な立ち位置を意識させられる。
キャラデザを見ても「自分ではなにもわからず『停止』してしまうララ:赤」「自分の意志で『前進』するリサ:青」という対照性を感じる。
この対照性を意識しつつストーリー展開を追っていくのも面白いかもしれない。
ちなみにリサの過去には、つい同情してしまったし、リサとコータの関係性は、主従を超えた信頼関係が感じられた。
恋愛感情があるかはさておき、二人には幸せな結末を迎えてほしいと素直に思う。
そしてラストは、王子のそっくりさんと出会って人魚化するララ。
引きも秀逸である。
ここまでのエピソードで、蔵から脱走や、喜八との発明品づくり、引きこもり奥様の説得など、
稲子の成長する姿が描かれていたように思っていたので、
父親に叱られ自分への劣等感で身動きできなくなる姿には、ちょっと今更感を覚えてしまった。
とはいえ、喜八の声で背中押されているあたり、絆は深まっているのだろう。
また、健吾のケイトパパに対する感情や、ケイトパパと清六との関係性、清六人形の手を取って語りかける洋輔の心酔ぶりなど、
そろそろ清六の人物像の深掘りが気になるところ。
それはそれとして、バンドの特訓シーンが昭和アニメ調だったり、
洋輔がいきなり半裸になって踊りだしたり、
稲子たちの音楽がデスメタルだったり、
どう受け止めればいいか戸惑いを感じるシーンもあった。
サブタイトルにある「革新」を視聴者側にも意識させる演出だったのか、
それとも考えたら負けで、そのま素直に受け取って、笑って見てればいいだけなんだろうか。
ちょっと受け取り方に困りつつも、印象に残る回でもあった。
律のみゅーたいぷ加入をビオラが提案していたのは意外だったが、
問題の当事者であるビオラの提案をすんなり検討しちゃう大人たちの描写に不自然さも感じた。
その不自然さは、描きたいストーリー(律をみゅーたいぷに加入させる)が先にあって、
その展開に合わせてキャラクターが動かされているように感じてしまったからかもしれない。
ビオラの行動原理がはっきり描かれていないこともあって、
ビオラの悪質ないじめによってストーリーが展開されてるだけという印象もあり、
なんか全体的に話に入り込めない感じがある。
キャラクターの「コレがしたい」という確固たる意志で展開されるストーリが個人的には好みなので、今のところ物足りなさを感じている。