本作品以上の感情に訴える作品を観たことがないと言えるほどの物語。
物語内容の前に、音楽・絵について述べたいと思う。
まず、冒頭から流れるピアノの透明感のある、しかしながら、どこか憂い帯びた音色がたまらない。絵も素晴らしい。特に情景描写は文句なしの高水準である。自然な日常描写ながら、効果的に用いた綺麗な表現が遺憾無く物語の魅力を引き出している。
さて、ここまで来たら物語について述べなければならないだろう。
ところどころ、文学作品における「地の文」のような、第三者視点、すなわち神の視点による描写と語りがあるのだが、この語りが淡々と冷徹に、そして暖かく、登場人物の心情を説明する。
本作品の根底は「時間と距離」と言われている。その上、さらに言うとすれば、「男女の『時間と距離』の相違」である。よく「男は別名保存、女は上書き保存」と言われるが、一見するとこの言葉を巧みに表現したような物語である。別にどちらが良く、どちらが悪いという話をしているのではない。そういうことではない。筆者は、その相違から生まれ人と人との間で発生する「恋愛」という営みの性質を、本作品の根底によって露わになるという点を述べたいのである。
神の視点をも超えた視聴者の視点から察するに、両思い、片思い、そして結末も片思いに終わる。厳密に言えば、結末の片思いは、主人公・貴樹が明里を愛する(もしくは、愛していた)理由を見失ったが故に、片思いですらないかもしれない。
あらゆる場面に心情表現、そして物語の結末を彷彿とさせる描写が点在している。花苗が進路希望の用紙を飛行機にして投げ、雲と星が彩る美的な夜空に浮かび、そのまま飛行機が決して白くは見えない、はっきりとした色を見ることができない雲に消えていった場面は、花苗の深層心情、そして「コスモナウト」の結末を暗喩しているようにも考えられるだろう。これは一つの例に過ぎないが、このような細かい伏線的・比喩的描写が散りばめられているのである。隙がない。
確固たる理由を見失っていた明里への愛は、そのまま、叶わずして物語は終える。「救いがない」と言えばそうだろう。ここで付き合って、結婚するまでがハッピーエンドと言えるだろう。それはアニメの持つ特性による影響も少なからずある。つまり、それは約束された結末なのであり、明確な答えが用意されている。
現実に則した展開として、二人の恋と愛は互いに確認し、それまで限られていた時間と距離が永遠にも思える時間と心理的距離になり結ばれる、というようなことは起きない。恋愛のような、人間の行う論理のみでは明確化できない営みについての一つの答えとして、新海誠はこの結末をもたらしたのである。
そして、明里からの言葉を受け取ったあの日から止まっていた貴樹の時間は、自然的に動き出す。
この描写で物語は終わりを迎える。
留意として加えるが、この物語の答えは一つだけではない。先述のように、論理で説明され、数学や理科などのように明確な答えはない。この世界に人間が存在する限り、その人間の存在する数だけ、もしくはそれ以上に答えがあり、そしてそれは時間が移ろうごとに変化し、生まれ、そして廃れる。結末について議論を深めることは、もはや不可能だろう。
男と女という二極的関係性、教師と生徒という教育的関係が複雑に絡み合い、恋愛を描く作品であるが、言葉にできない感情を抱く。そして、大人と子供、ましてや教師と生徒という関係でありながら、ヒロインは弱者の立場、主人公は弱者でも強者でもなく、むしろ「学校」という存在に興味すら抱いていないという点が、物語の真骨頂。たゆまぬ努力によって練られた背景が、作品の尊さに魅力を増幅させている。文句の付けようがない。
新海節が強烈に炸裂している本作品。絵、音楽、物語、キャラクター性、すべてにぬかりなく、至高の作品。終わり方も視聴者に展開をゆだねるような描写で、これまた新海誠の本懐を感じられる。
新海誠はただ単に男女の恋愛を描こうとはしない。そこに、時間や距離の概念を織り交ぜる。本作品においても、「入れ替わる」という点、その上、圧倒的な遠距離でいながらも、過去と現在を行き来し、未来を切り拓いている。
新海作品の魅力と言って良いであろう結末だが、これまた現実性を大いに帯びたものとなっている。瀧と三葉は結ばれるという描写を明らかにしていない。その上、瀧と三葉それぞれがそれまで誰とも恋を実らせることはない。
家族という視点においては、差異が見られる。瀧の家族には母親がいない(監督曰く、「離婚」)。一方、三葉は母親を小さくして亡くし、その上父親は絶縁のような関係性、加えて妹・祖母と暮らしている。男のみの家族、女のみの家族、このような点は色々と考察を深める意味があるだろう。
糸守の壊滅となる最大要因の隕石だが、これには皮肉的な意味が込められていると考えられる。一見すると果てしなく綺麗で美しいものだが、このように被害対象となった側からすると、とても憎いものと見てしまう。これに、瀧の暮らす都会・三葉の暮らす田舎という対立構造が、物語を巧みに表現している。
我々はこの作品から、人生というものに見つめ直す良い機会を得ることができるのではないか。大人と子供、男と女、都会と田舎、父親と母親、愛と憎、美と醜……人間を構築するあらゆる二項対立が本作品から感じ取られ、そしてそれらについて考える。幸いなことに、人間は考えることのできる生命体である。
そして、人間は他者と関係を築く生き物でもある。その中で生まれるのは、本作品でも言及される「縁」である。自らで生きているつもりが、知らぬところで誰かに支えられ生きている。いつの間にか忘れかけていたそのことを再び思い起こさせてくれる、素晴らしい作品である。
人間は過去に戻ることができない。未来に行くこともできない。現在を生きることしかできない。しかし、過去を振り返り、未来に活かすことはできる。本作品では過去と現在が入り混じり、超越的な関係性が生まれるが、現実世界ではそのようにはできない。そのことを忘れずに、現在を後悔のないよう生きねばならない。
(恋愛というのはその先に、一生にも近い時間を共にすることができる未来、悲しいことに共にすることができない未来とが待ち受ける。ただ、たとえ短い時間でも、たとえ距離が遠くとも、心を通わせ、互いに愛を確認しあった瞬間がある。どのような未来が待ち受けようとも、そのことだけは忘れてはならない。過去を過去とし、その時の感情を無下にするのではなく、その感情を抱いたことを振り返り、現在と未来に活かすことが大切なのではないだろうか。)
アニメについて、わざわざ悪しき側面を述べたくはないが、あえて言いたい。なぜこれほどまでに「売れた」のか。崇拝する視聴者にはその理由をお聞かせ願いたいばかりである。
この作品をリアルタイムで観ることができなかった、つまりリアタイできなかったことが非常に悔やまれるばかりである。視聴すれば、「生き方」について考えさせられ、そして、自己−他人の関係性を見つめ直すことができるだろう。「希望と絶望は差し引きゼロ」この言葉を胸に刻んでいきたい。推しはまどかである。
これまで人気が続き、リビルド作品である『ヱヴァ』シリーズでさえも新作が待たれるこの現状はなぜだろうか。自ずと答えは見つかる。その答えはこの作品を観れば分かる。しかしながら、終盤二話はやはり「自己啓発」と言われても仕方のない展開だった。惣流・アスカ・ラングレーは筆者の推しである。
TV版の集大成とも言える本作品。生と死、男と女、愛と憎、大人と子供…人間が生きる上での様々な二律背反を現実的に描いた作品である。90年代アニメを代表する作品にふさわしいアニメと言っても過言ではないだろう。
宇宙世紀シリーズ主義者にとってはたまらない展開だっただろう。『逆襲のシャア』を感じることのできる物語に感動するばかりであった。
これまで続いたアムロとシャアの「宿敵」関係もここで終焉を迎える。涙を流した視聴者もいるだろう。再び述べるが、ヒューマンドラマなのである。
いわゆる「ファーストガンダム」の続編にあたる作品だが、本作品ではそれまでの「ガンダム」に対する思考が覆される。すなわち、善だったものが悪となる。ヒューマンドラマと言っていいほどのドラマティックな物語には、視聴者も息を飲んだだろう。
現在まで続く人気作品の始まりである。これを見ずしてガンダムシリーズを語ることはできない。つまるところ、ガンダムシリーズの根源である。世間は「ファーストこそがガンダム」「宇宙世紀シリーズは過去の作品」と論争が絶えないようだが、あえて言いたい。そんなことはどうでもいい。しかし、「ガンダム」というのは、この作品から生まれたのだ。そのことを見て見ぬ振りをするわけにはいかないのである。
「恋愛」というものは論理的に説明しきれない、とても人間らしい営みである。人を愛すとは何か、その真意を迫る描写と物語、人間関係の理想を生々しく、かつ、直接的に実感できるだろう。
最終話を観終えた時、人生というものを考えさせられた。つまり、それほどの力を持つアニメだということである。「ヒト」という存在、そしてフレンズとなった「動物」との関係性、多くのメッセージを投げかけた、崇高な作品である。クリフハンガーといったアニメお決まりの展開を王道的に踏襲し、たちまち覇権へと近づいたことだろう。「けものはいてものけものはいない」この言葉を忘れてはならない。そしてかばんちゃんがかわいい。
かつての『新世紀エヴァンゲリオン』を彷彿とさせた。アクションアニメに欠かせない悲壮の物語性を携えており、時にNTRといった描写も物語の意味深さに拍車をかける。しかしながら、舞台が大きく広がった瞬間、多くの視聴者は一抹の不安を抱えただろう。遺憾の意である。そして一言、NTRはキツい。
話ごとに声優を変えるという、アニメの根底を覆すかのような試みに心からの賞賛を届けたい。「クソアニメ」という看板をある意味で打破した、まさに「クソアニメ」である。
言うまでもなく、観ればお分りいただけるだろう。愛のある物語性に、我々はたちまち心の奥底で歓喜するだろう。続編に期待している。
制作関係者には「アニメ」という日本文化の意味を問いたい。我々はあれほどの社会現象を起こし、洗練された物語進行とキャラクター性による素晴らしい大団円を迎えた「けものフレンズ」という作品の続編として、この作品を称えることができるだろうか。あらためて、制作関係者の考える「アニメ」というものの存在ともたらす影響、そして「アニメ」たる理由を、今一度深く討議していただきたい所存である。