サービス開始日: 2019-01-14 (2578日目)
死出の鳥、偽物なだけの怪異。最後にして最も偽物そのものの存在として阿良々木月火が立ち現れる。
「ドキドキしない」事からたとえ偽物でも月火は妹に違いないと確認する暦。どうも彼にとっては欲情を超えたところに真に親密な愛があり、しかし超えたからといって不要なのではなく「いくら触ってもいいだろ」といった帰結になる様だ。(何故?)
影縫は一般常識の面から偽物であることの悪を説くが、阿良々木は悪を受け入れる。影縫の「正義」とは一般規則を個別の事例に適用する演繹的な態度だが、今回の場合は嘘(偽物)の倫理性など彼等には問題にならなかった。そこで影縫は悪の中から生まれる価値、かつての貝木の主張の真意を悟る事となる。
ただ単に偽物である事を肯定するのではなく、そこに宿る意志へ価値を置くのはかれんビーと共通していて、『化物語』から続くストイックな思想が見えるところだろう。
偽物がそれでも本物に匹敵するには己の弱さを受け止めて確固とした意志を持つしかない。これは『化物語』におけるメッセージの敷衍だろう。貝木は「詐欺師」と自己を規定するほどに偽物であることを本気で背負い込んでおり、手を引くが別に敗北などしない。しかし貝木が「劇的」であること、消費的かあるいは刹那的な生を求めるのに対して戦場ヶ原は自分のこれまでの人生を丁寧に見つめる。あるいはその「つまらなさ」も偽物の受け止めるべきものなのだろうか。
神原との一件でセクハラを自省し自制した阿良々木だが、八九寺はそこに親愛のコミュニケーションを見出していた事が明らかになる(それでいいのか)。
戦場ヶ原の貝木への複雑な感情の一片が垣間見える。「悪意」そう、「どれほどの違いがある」かと言えばそこだ。
マルクスの指摘した物神崇拝の権化、倫理なき合理主義。貝木のこうした存在性を考えると「教訓」の口癖は「意識高い」人間の戯画化だろうか。詐欺師が契約自由の原則を振り翳すなど詭弁もいいところだが、彼の立場は確固として語り口は魅力的ですらある。「どれほどの違いがある?」勢いのまま乗り込んだ火憐はこの問いに答えられず、むしろ再分配としての詐欺(『老人喰い 高齢者を狙う詐欺の正体』によれば特殊詐欺の現場でも吹聴されている論理らしい)が尤もらしく聞こえてしまう。
「正しいことをした」羽川の言葉により阿良々木暦の「ごっこ」呼ばわりは自分へ反射する。「自分の弱さを受け止めなければならない」前回と較べると自分の正義の「偽物」さに正直に見える。
羽川が何気なくベッドでごろごろしてるが、千石の部屋での阿良々木の様子を思い出すと随分奔放だ。
貝木の専門家としての「偽物」さは前回に引き続いてここでも指摘されていて、「偽物」概念の別の面も見せている。
長命を示唆する忍は「添い遂げられる者は自分しかいない」とでも言いたげだが、そこで己を殺してみないかという話になるのが興味深い。この先の余生には興味など無いから暦の美しい傷跡にでもなってやろうというのか、吸血鬼化を清算して赦されるを良しとするのか、それとも単に存在を意識していろという事なのか。
貝木泥舟初登場。血色の背景、勿体ぶって胡散臭い劇伴、全てが人間離れした凶兆を漂わせる。
阿良々木の「正義マン」という言い回しへの反応には妹達の「ごっこ」とは違うという意識が滲む。
千石必死のアプローチにもかかわらず「どうしてだろう」と何処吹く風。阿良々木火憐の「じゃま!」は非常に動きがあって良いカットだ。
偽物本物と言う前にセクハラの害など体感するまでもなく分かっていてくれ
阿良々木月火が終始妙に色っぽく描かれる。兄の方は相変わらず八九寺に異常行動。羽川は明らかにアダルトチルドレンを意識したキャラ造形だが、この八九寺もかなり出来た人間である。
「たかが数ヶ月の恋愛のことで」自分を軽んじるが故に阿良々木はここで珍しく羽川の苦悩を見過ごしてしまう。しかしそれは「たかが」ではないし、また阿良々木自身も恋を知り、そうして初めて阿良々木は誇りを持つ。まぁそれでも「羽川のために死ねるのなら」なんて言ってしまうのだが、そこで戦場ヶ原の首輪が効く。「それはただの言葉だ、お前の気持ちじゃニャい」ここでようやく忍野のテーゼを乗り越え、阿良々木は正面から周囲との関係性に向き合う。
「弱さだ」なんて他人に言い切るストイックさは健在で、まぁこれはレジリエンスとかの概念を知っているとキツ過ぎないかと思うところだが、こういうところへの批判は続編の中で様々に批判されていく部分だったと思うし欠点と言う程ではないだろう。(そういう意味で個人的には千石とか老倉とか阿良々木に都合の悪いキャラが好きだ。)
猫は「馴れるな」なんて言いつつ実に丁寧にお膳立てをしてくれて、流石羽川の別人格と言うか良い奴だ。
前半では電話の受け手からの描写でそれぞれの日常生活が見える。戦場ヶ原は羽川には色々思うところがありそうに思えるが、意外に友人として畏敬の念が深い。
アホそうで含蓄のある事を言う猫。
まずセクハラをするなマジで(ライトノベルに反映される読者の性欲の歪な翻案なのか? しかし作品全体というより八九寺に固有なのが実に謎だ)
「お前との友情よりも、お前に恩返しをすることの方がずっと大事だ」阿良々木の羽川への深い尊敬と自己犠牲の姿勢が滲む。
「これで全部よ」
つばさキャットといいつつSTAPLE STABLEで始まり戦場ヶ原とのデート回。前半では父親の真後ろで好き放題する戦場ヶ原の恐るべき度胸が見られる。
自分を愛していない阿良々木は「一人で助かっただけ」と忍野の言葉を引用する訳だが、「必要なときにそこにいてくれた」事が重要なのだと戦場ヶ原の父は言う。忍野はドラえもんの様に万能っぽくても思想としてはこうして相対化されている。関係性というのはそう身構えなくてもいい、そこにいるだけでももう始まっているし、そこに既に価値はある。
「全部」というのは『鋼の錬金術師』のラストでもそうだったが、理屈抜きの愛を感じさせて力強い。戦場ヶ原ひたぎの美しさ、捻くれている様で真直ぐな心がこの回に詰まっている。
「私嘘なんか吐いたことがないもの」
化物語のキャラクター描画(というかスタイルというか)はかなり幅があるが、千石の二回目に手を避ける顔は随一にかわいい。
第貳話で触れた精神医学の用語が「多重人格障害」とここで具体的に示されるのは注意に値する。
阿良々木と神原の掛け合いに笑う千石は彼女の重い思慕からすると妙に年相応で印象に残る。
中学生がスク水で悶えるというまた趣ある描写だが、流石にシリアスな場面だからかここでは性的な目線が露わには描かれない。
阿良々木はアウトサイダーに寄り添いながらも「助けるべき相手」があるというのが示されているが、「諦め切れなかっただけだ」という言い回しは「正しい対応は犠牲者を出さない」という思想が滲んでいる様にも取れる。
神原の深層心理は戦場ヶ原より余程攻撃的で「悪」らしいものだった訳だが、そこで阿良々木は「弱さ」などと言わずに肯定しようとする。ここは忍野が指摘する様に戦場ヶ原の時とはやや態度が異なる様なところがあって、「諦める」という姿勢が受け入れられなかったのか、自己犠牲癖の発露と読むべきか。まぁこの回に限って言えば後者の方が前々回の戦場ヶ原の台詞も回収して、戦場ヶ原が首輪を付けるという構図になり収まりがいいのかもしれない。
「それを私は良しと出来る」受け入れるなどと弱気な言い回しをしないのが神原の高潔さを示しているし、まただからこその嫉妬する自己への絶望の深さも見て取れる。異様な(ヘテロセクシャルでないというよりオープンな言動の点で)性愛と人間性の共存という意味で彼女は阿良々木に近い人物に思える。
阿良々木ではないと信じたいはこっちの台詞だ。幽霊相手なら性犯罪を行ってもいいのか?
八九寺の正体が判明するところは実に見事で、八九寺の不愛想な態度は思いやりで、戦場ヶ原の攻撃的な態度は奥ゆかしい自己防衛で、羽川の登場は偶然ではなかった。「あなたのことが嫌いです」という台詞への感性は阿良々木の人格を深く印象付けると共に、『化物語』の言葉への向き合い方、心理(トラウマ)への洞察をも象徴しているように思う。
結局「蕩れ」を引用してやや曖昧に返すのは腑抜けてないかと思わないでもないが、まぁそこまで真っすぐではないのが阿良々木の良いところなのかもしれない。
戦場ヶ原と八九寺の緊張関係(八九寺が単に振る舞いを誤解したのか、それとも戦場ヶ原の人格へのより本質的な恐怖と解釈すべきかは不明だが)や阿良々木の八九寺への謎の暴力性(これは最後まで観てもマジで謎)が印象的。
戦場ヶ原の遠回しなアプローチ(自称しているツンデレというより今の感覚ではクーデレと言った風だが、それも彼女の脆い雰囲気にはやや適合しないところがある)、一般社会への負い目という形で「ヘタレ」的なところを見せる阿良々木。後に見せる八九寺への恐ろしいセクハラなど考えるとここでの謙虚さは不可解とも言えるレベルで、面白い彼独自の線引きを匂わせる。
メタ的な話を付け加えれば、こうした会話劇の成立はオタク的なネタを共有するコミュニケーションへの欲求を反映したものと言えるだろう。(評論家筋がよく言うやつ……だが別にコンテンツが滅びる訳ではなく、正にこうしてコンテンツはそれをも内包して展開していく。)
ここで行われる儀式はフォーマットとしては神道に基づく神への干渉だが、実際の手法は明らかに催眠法でありフロイトの精神分析的な治療だ。魔法を科学的に解釈して「リアリティ」を持たせる世界設定はよくあるものだが、キャラクターの内面におけるトラウマを精神医学的にリアルなものと解釈する方法論は現在から見ても異様、先鋭的、あるいはグロテスクですらある。西尾維新が「キャラクター」の掘り下げをそういう方向でしか見出せなかったのか、そこを語るほど詳しくはないのだが、何にせよ強烈で興味深い。詳しく言うと戦場ヶ原の症状は解離(特に離人症)に当たるもので、「蟹」とは「解」離に由来する可能性がある。
忍野が「悪いことではない」と言うものの物語としてはトラウマに向き合うのが正しいと提示する訳で、この辺りは猫物語とかのメッセージを考える為に注意しておく必要がある。
戦場ヶ原について尋ねる阿良々木への意味深な表情、バナナについて味ではなく機能での評価と、観返してみると羽川の内面への丁寧な示唆が光る。
冒頭から謎に本気なパンチラ描写とスタイリッシュなカットが続き、軽薄な会話と裏腹な戦場ヶ原の重い事情そして民俗学の彩り、『物語』シリーズ固有の奇妙な取り合わせがこの初回に凝縮されていてよく出来ている。