サービス開始日: 2019-01-14 (2578日目)
冒頭、お祭りの主役だったときのあんこの思い出。しかし一方で現在はお祭りに浮かれた人々へ醒めた目を向ける。それと対比させられるのが恋だ。興味深いのが登校時に商店街の人々から何かと貰い受けるところで、これを意中の人に見られまいとするのはお祭りや商店街の人々との関わりをより大きな視点で、田舎っぽい振る舞いと認識して忌避している様に見える。生き方そのものとしての「都会vs田舎」の構図が組み込まれている、と読めるところだが、問題の意中の人が実はいかにも都会的なイケメンの方ではなかったというオチを考えると、これもメタレベルでのミスリードなのか、それともただの深読みか。
あんこが「昔は…」と呟くところが最も重要で、つまりあんこは単に興味が移ったという訳ではなく、自分が主役ではなくなってお祭りを楽しめなくなった、という心理があったのだ。
お祭に目配せしつつ博物館へも行く、両天秤の作戦は失敗に終わってしまうのだが、あんこはそこで他の子供に自分の「主役」の体験と同じものをプレゼントすることになる。ここに至って、あんこは地域コミュニティというものが単に自分自身のためではなく、そこに貢献する中で何かを受け継いでいく、そうした中で充足が得られる場所であると気付く。(やはりコミュニタリアニズムとリベラリズム(自由恋愛)という構図を思わせる。)いや「母」の役目を引き受けることで、多様な立ち位置、主役以外にも楽しめる役割があることを理解する、といった感じかもしれない。とにかくそうしてコミュニティへの愛着を回復する。
しかしそれでめでたしではない。それではかび臭い懐古的保守主義になってしまう。物語はそこで恋の側にきちんと報いるのだ。「別の道は別の花。新たな花が咲いている」
そして上述のオチによって対立は結局無化されてしまう。別に彼女はこんなテーマ性云々の為に生きているのでは決してないのだ。きちんと時代性を踏まえつつあんこの機微を描いていて素晴らしい回。
前回とは違い冒頭から視線の先が明示されているのだが、では繊細で奥ゆかしい情緒が描かれていないか? と言うと全くそうではない。むしろその描写の厚みが故に「私もだよ」という一言が計り知れない重みを持つのだ。何と反応されるか分からないコミュニケーションの普遍的な不安、それを十分に共有したからこそ、この言葉に途轍もない愛を感じられる。
銭湯の場面、時々眼鏡だしやや近視なのか目を細めるたまこが珍しい表情で良い。
バレンタインを軸に商店街の愉快な様子や、たまこともち蔵のいかにも幼馴染みな交流が描かれるが、やはり注目すべきはみどりだろう。
みどりが思いを抱えていること自体ははっきりと言葉でも語られる一方で、その対象については決して語られない。ただ映像によって、例えばCM撮影時にたまこの手のハートマーク→みどりの瞳が揺れている姿、ここでは見ているもの→見ている人というカットの流れのパターンにより辛うじてその対象が示唆されている。終盤のCM放映シーンでみどりが一人だけたまこへ視線を向ける場面、ここでようやく一画面で関係性が確認ができることとなる。そうして振り返ってみれば最初のたまこがハートを描いていることへの固い反応も納得され、また翌朝の言葉が詰まりがちなみどりも(メタ的に言ってしまえばここでこの二人が描かれること自体も)十分に解釈することが可能となる。第一話のデラの分かりやすい「意識し始める」場面とは対照的に、決してそれが記号的に、「それ」として描かれはしないのである。だがやはりこの回の中心はみどりなのだ。網の目の様な地域コミュニティの関係の中でむしろ燦然と輝く関係性を浮き彫りにしており見事と言う他ない。
年の瀬という珍しい時季から物語が始まる。
昔途中まで観たが記憶よりかなりフォトリアル調な背景だ。
作品タイトルの通り商店街という地域コミュニティに根付いたたまこの生活風景と、そして自意識としても「私はもち屋の娘だからね」とアイデンティティの拠り所となっているのが描かれる。その台詞にデラがときめいて? いるのはちょっと謎だが。「王子の妃を探す」使命を帯びて家系に奉仕する自らと重なる部分があったのか、それとも特に深い意味はないのか。
難しい最終回だった。
新月は当初の願い通りに魔力を消し去る。その決意は美しいが、どうしても新月は本当にそれで良いのかと気になってしまう。
この物語の中で新月の心理がどう変わったかと言えば、満月により彼女の秘された願いが叶えられた事だろう。確かにそれで新月は救われたかもしれないが、しかし本当にそれで悔いなしと言えるのか。「やりたい事はたくさんあります」一人ではできない事もたくさんあるんじゃないのか。
魔力と対立する価値として自然主義的な世界賛美がある訳だが、この成長を止めて混沌を極め続ける(バブル崩壊後、また世界的分断の時代たる平成以後の世代にとってこれはある程度共通認識ではないかと思う)世界に照らしてその美しさを唯々諾々と信じるのは難しいところがある。魔法少女的な文脈において魔法自体の否定によってそのテーマ性を更新しようとしたのだとしたら、あまり成功したとは言い難いかもしれない。
ただはっきりしないのが最後の場面で、この転校生は一体誰なのか。新月の表情や話の流れからすると満月が「ただの人形ではない」→この世界に残った、と読んでも良い気がする(人形ではないというか人形から発展したといった言い方なので微妙だが)。そうすると新月は満月の為に魔力のない世界を願った訳で、話がかなり違ってくるが……。難しい。その内他人の感想も聞きたいところ。
「脚なんて要るか!」水晶のキャラは最後まで素晴らしかった。悠木碧っぽい声のやばい女は何人かいたが(オーバーロードのとか)彼女はやや異なった雰囲気でまた良かった。
「悪いに決まっているでしょう」「千年経っても何一つ変わらない」水晶の魔術師に相応しい人間への思想が覗く。これはマギアコナトスの意思というよりは彼女なりの千年間見てきた事への解釈なのではないか。
「私は新月ちゃんの思いの結晶なんだよ」そう、創られた者はそれ故に存在理由を予め持っている。「本質が実存に先立つ」のだ。
満月にほぼ主導権を握られる形となった新月だが、彼女亡き今果たしてどう戦うのか。
新月の願いは「もし力があれば」などと考えてしまった事への戒め、それにもかかわらずマギアコナトスは彼女の深い心理から満月を生み出してしまう。これを弱さと言うのはあまりに過酷だ。
「なくならないんだよ」「生きてるってこういうことなんだって」高校生にしてこうした論理で死を受け入れる事がどれほどに辛いかは想像を絶する。(弁当はやはりそれでいいのか…? と思うが)それでも満月は新月の願いを選んだ。こんなに辛い話があるか。
寧々と同じ様に勝ち確の流れから掌返しを喰らう九音。後半の鬱々とした雰囲気は素晴らしいが、特に異様と言う他ない水晶の語り、折れ曲がるどす黒いシルエットは強烈だ。人間そのものに対抗心を持っておりいよいよ本当に人間でない可能性が高まる。
細かいが寧々のめちゃくちゃに行儀の悪い坐り方が印象的。
満月は戦う理由を新月に見出していただけに彼女に頼る事もできない。「生きてもないのに!」聞いた事のない荒げた声が悲痛だ。(私は本質より実態を重んじる主義なので、その痛み、感情を感じた事、そう思えた事だけは信じて良いと断言したいが)実感としてその身体はどうしようもなく人間で、その矛盾が彼女を苛む。
姉の真意に気づいて水晶を圧倒する九音、ピアノを背景にした激闘が美しい。ここまで効果的なピアノ劇伴は『ダンタリアンの書架』(作品世界に合わせてクラシックサウンドで統一されていて最高)くらいしか記憶にない。(ピアノ主体でもないがゆるゆり三期の第8話冒頭も素晴らしかった。)
「空っぽ」を克服したかと思えば「もの思う人形」、満月へのあんまりな仕打ちである。アルマノクス(人形)を操る物であった糸が自分に見えるという演出は何ともグロテスク。
「傷を全て抱えていけ」といった事を水晶が言っていたが、これすら満月の受け入れるべきものなのか。「何もないを背負っている」ならば自由意思さえも。
徐々に超人的な精神攻撃スキルを見せる水晶。「戦いが始まる」と言うが流れからすると九音も脱落しそうで恐ろしい。
「何もないを背負っている」第2話で示された満月の理由がここで再び表明されるが、今度は同じ痛みによって新月と通じ合う。前々回の「自分のことが嫌い」という話からすれば、人の願いとは自分自身の為のものだ、あるいはそうあるべきだという事かもしれない。その正否は姉の為に戦う九音の命運が試金石となるだろう。
魔術キーボードや寧々の主観的な聴覚を表現する演出が良い。
「努力したことは一度もない」才能ゆえの因縁と向き合う新月、マギアコナトスに愛されなかったがゆえに「壊れて」しまったアンナ。鷲巣巌の様な台詞を吐きながら(イカれててマジで最高)新月を蹂躙するアンナだが、結局はその才能の前に敗れてしまう。哀しいのは最も追い詰めた場面でさえ「どうしてあなたは」と新月の意識はマギアコナトスへ向かっているらしき点だ。サブタイトルも「ミス・ルサンチマン」と手厳しい。つまりアンナはルサンチマンを宿す側、決定的な「弱者」と位置付けられている。この類稀な激情の女が運命に敗れ散っていくのは何とも惜しい。
「ストーキングという名のライフワーク」ではないが
他の参加者に申し訳なく思う一方で後悔はしていないと言い、嬉々として戦う喜びを語る満月。戦いに魅入られたかのごとき語り様で新月の「操られている」という説に不気味な説得力が宿る。
新月のかつてのアンナの優しさを思い出して真実を告げる決心をするが、それがアンナの決定的なアイデンティティを破壊してしまう。新月に家族を奪われた(と思い込んだ)中で彼女に勝つことだけがアンナの希望だった。これはグランベルムに魅入られているという意味では満月と並行しているのかもしれない。めちゃくちゃに憎い女の優しさで自分が思い上がってるだけだったというきつ過ぎる展開で良い。
「引っ込み思案」を克服して真っ向勝負を挑む寧々だが、満月の「いや!」でその意志は打ち砕かれる。フラッシュバックした場面からして「いや」というのは透明な自分には戻りたくないという拒否だろうか。しかし話の流れから言えば自分の殻を破った寧々が一矢報いるのを期待する場面であって、寧々の唖然とした反応は視聴者の気持ちと重なるところだろう。寧々の過去を垣間見てようやくグランベルムが願いの潰し合いであることを悟る満月、心の追い付かないまま勝ち続ける彼女の異質さが浮かび上がる。
遠距離攻撃で圧倒する寧々だが火力的に決定打を与えられない。早々に居場所を感知されていて(異質っぽい水晶と感知系の九音だから誰にでもという訳ではないが)遠距離のアドがあまり活かせていないと言える。
水晶は相変わらずだが私服が妙に落ち着いたチョイスでかわいい。
現実側で偵察する寧々、しかし最終的には身元を明かして正面に立つ。これは母親の境遇に対する反発であると共に、新月が語る様な旧来の魔術師の薄暗い宿命の否定でもあるだろう。
アンナの激情が徐々に説明されると共に寧々や九音の理由も明かされる。新月が今回はビンタを受けたのは当てつけの様な場面になってしまった申し訳なさか。
「意志を強く」とは言うが具体的にどういうものかは明らかでない。「イメージするのは常に最強の自分だ」?
冒頭、こういった異常な状況で平静にしている人間というのは何か「強さ」を感じさせてよい。警察が来ている場面もキャラがこの世界(また人間関係)に根付いて生きているのを示していて丁寧だ。(セカイ系的な「向こう側」の世界の感覚とは対照的と言える)
満月は「私には何もないから」、何者かになるのではとグランベルムへの参加に希望を見出す。こうした心理は美少女バトルロワイヤル系の大元にいる鹿目まどかと同じと言ってしまっても良いものだが、重要なのは新月がまどかにしばしば言われたのと同じように「そこまで自己実現したいのか」と問う点だ。命を、存在を懸けても何者かになりないのか? 満月は「ほんとにないんだよ」と切実に訴える。ここには『まどか☆マギカ』を丁寧になぞりながらもその先を目指す姿勢が現れている様に思う。
また「別に周りに悪い人がいるわけじゃない」というのも別に誰かを倒してめでたしめでたしとはならない「どうにもならなさ」を示す重要な台詞だ。『魔法少女育成計画』などはバトルロワイヤルの形でありながらこの点で大きく性質を異にしている。
他人の為に弁当をいくつも作るというかなり闇っぽい情報の開示から物語が始まる。(普通に出費だけ考えても馬鹿にならない筈だ)
魔法駆動のロボットが現れるが等身が低くあまり雄々しい感じではない。
話としては美少女バトルロワイヤルの様式だが、弁当を食べる場面は「日常」へのはっきりした意識が見て取れる。(個人的に『まどか☆マギカ』の革新は日常系の読解力に悲劇をぶつけたところにあると思っているのでこれは重要な点)
犬の様にドーナッツを貪る忍野忍(まだ命名されてはいない)。「信仰」などにより超常の存在を人間原理的に説明するのは今やありふれているが、これはその先駆けの一つだろうか。
忍野自身の言葉を引用して干渉を渋る阿良々木に対して、忍野の訝し気な視線が刺さる。口では軽薄にしつつも「お人好し」な忍野の性格が現れた場面だろうか。