サービス開始日: 2019-01-14 (2640日目)
楓の「来いと言ったり待てと言ったり」が鋭く指摘している様に、甲斐甲斐しく梨璃の身支度をする一方で戦場に出ると突き放してしまう夢結の行動は矛盾しており、生来の人間性と自罰感情が綯交ぜになっている心情が察せられる。
夢結の雪解けが梨璃だけでなく周りのコミュニティからも見守られ歓迎されているのも印象的。
美鈴はずっと死んでるものと思って(だって生きてるならあんな孤高! って感じにならなくない?)寮で話しているのを別人と思っていたから、祀が出てきた時どっちが本当のルームメイト!? となっていた。普通は「死んでる」であれが幻影と分かる訳だ。
アニメ的でありながら立体感のある顔が好きなのでアバンの「変な子」のカットはかなり好みだ。
「落ちこぼれ」みたいな属性はアイデンティティとして主人公だけに課される事が殆どの印象なので二水との共通点として働いているのは興味深い。
完全に摸擬戦する流れかと思えばそうでもない。こういうところ在りし日の学園ラノベアニメ的なノリで観ていると屡々裏切られるが、別に気にしないで観るのが正解な気もする。
夢結がいきなり(いや不発の楓の行動はあるが)ビンタするのはかなりビビる場面というか何故。いきなり襲ってきた不届きな部外者に怒って? それともシュッツエンゲルに値しない人間性を演出しようとして? 梨璃は普通に喜んでいるがそれでいいのか。変わった理由が知りたいと言っていたからまぁ目的に適ってはいるか。楓は第1話の心酔から打って変わって「すっとこどっこい」とまで言っているが頷ける反応。梨璃は逆にそれだけ夢結の善性を信じているという事か。ビンタされての困惑(元から梨璃に受け止められて動揺してはいるが、手と目線からこの時点で楓の注意は夢結のビンタに行ったと考えていいだろう)から怒りを再燃させてビンタし返すまでの表情変化が特に印象的。
浴場や寮でのコミュニケーション描写は実在感があってよい。「風呂アニメ」と称されたアンジュ・ヴィエルジュが懐かしい。
話の流れにはややぎこちなさを感じるが、戦闘や表情などの画は良質で百合バトルアニメ的に期待できる。特に楓の動向は気になるところ。
シックな制服デザイン、このごった煮ばかりのご時世に北欧神話一本のモチーフ、下半身重視の体型(キャラクターデザイン)など味のある要素が多い。
あんこが会いに行くのを躊躇うの、まぁ取り敢えず行ってから考えようぜと思ってしまうが小5でそう思い切りよくはなれないよなぁとか、豆大が昔日を懐かしんでも別に涙ぐんだりはしないのもこの歳だとそういうものなんだろうなとか、キャラクターの振る舞いが本当に世代に跨る恋の姿を映していた。もち蔵も珍しくいい仕事。チョイが非常に馴致している一方で礼節は損なわないのがまた良い。
史織の参入でもそうだったが、各話間の人間関係の変位が時間の流れを意識させる様になっている。ここには地域コミュニティに根付いた日常であると同時に、時間に根差した日常がある。
冒頭からカメラをやや回転させながらパンする恐ろしく気合の入ったカット。
尊敬すべき生真面目さ、また実る思い、散る思いに心揺らめく姿、初登場ながらチョイの機微が詰め込まれており最早商店街の一員といった感じ。人々を占う事の喜びや妃が見つからない=王子が結婚しない・ずっと滞在し続ける、という状況による日常の引力(つまり「転」の使者たるチョイだがむしろ現状維持こそ得策かもしれない)は一つの未来をも示唆しているが、はたしてチョイは何を選ぶか。
CM回と近い流れだが、今度は商店街に人が集まるという具体的な成果を得る。そう考えるとこれはたまこの回かもしれない。
酒を撒くというイカれた行動と「酒くさ」という実感の籠ったツッコミが何とも印象的。
唆されたもち蔵の行動に警戒を強めるみどり。
言い争いでの「……なに?」はややニュアンスが難しく感じたが、後の流れだとか「もち蔵だし?」のところで微妙に肩の力を緩める所作を見ると、もち蔵の低レベルのマウントに拍子抜けしたという感じなのだろう。たまこから決定的な言葉質を取ったみどりは「好きにすれば」といった様子。この力関係は告白に関してキョドるもち蔵を笑う場面で明白になる。
一方のもち蔵はまぁみどりの正論を喰らって冷静になったといったところなのだろうか。花火を観ながら改めてたまこを意識するもち蔵だが、冒頭と同じシチュエーションのラストでは意識した様子もなく(頬を染めていない)単に友達と言った絡みで終わる。
デラの干渉があっても物語が動き出すというよりはむしろ日常への回帰に収まる、というところか。
冒頭、お祭りの主役だったときのあんこの思い出。しかし一方で現在はお祭りに浮かれた人々へ醒めた目を向ける。それと対比させられるのが恋だ。興味深いのが登校時に商店街の人々から何かと貰い受けるところで、これを意中の人に見られまいとするのはお祭りや商店街の人々との関わりをより大きな視点で、田舎っぽい振る舞いと認識して忌避している様に見える。生き方そのものとしての「都会vs田舎」の構図が組み込まれている、と読めるところだが、問題の意中の人が実はいかにも都会的なイケメンの方ではなかったというオチを考えると、これもメタレベルでのミスリードなのか、それともただの深読みか。
あんこが「昔は…」と呟くところが最も重要で、つまりあんこは単に興味が移ったという訳ではなく、自分が主役ではなくなってお祭りを楽しめなくなった、という心理があったのだ。
お祭に目配せしつつ博物館へも行く、両天秤の作戦は失敗に終わってしまうのだが、あんこはそこで他の子供に自分の「主役」の体験と同じものをプレゼントすることになる。ここに至って、あんこは地域コミュニティというものが単に自分自身のためではなく、そこに貢献する中で何かを受け継いでいく、そうした中で充足が得られる場所であると気付く。(やはりコミュニタリアニズムとリベラリズム(自由恋愛)という構図を思わせる。)いや「母」の役目を引き受けることで、多様な立ち位置、主役以外にも楽しめる役割があることを理解する、といった感じかもしれない。とにかくそうしてコミュニティへの愛着を回復する。
しかしそれでめでたしではない。それではかび臭い懐古的保守主義になってしまう。物語はそこで恋の側にきちんと報いるのだ。「別の道は別の花。新たな花が咲いている」
そして上述のオチによって対立は結局無化されてしまう。別に彼女はこんなテーマ性云々の為に生きているのでは決してないのだ。きちんと時代性を踏まえつつあんこの機微を描いていて素晴らしい回。
前回とは違い冒頭から視線の先が明示されているのだが、では繊細で奥ゆかしい情緒が描かれていないか? と言うと全くそうではない。むしろその描写の厚みが故に「私もだよ」という一言が計り知れない重みを持つのだ。何と反応されるか分からないコミュニケーションの普遍的な不安、それを十分に共有したからこそ、この言葉に途轍もない愛を感じられる。
銭湯の場面、時々眼鏡だしやや近視なのか目を細めるたまこが珍しい表情で良い。
バレンタインを軸に商店街の愉快な様子や、たまこともち蔵のいかにも幼馴染みな交流が描かれるが、やはり注目すべきはみどりだろう。
みどりが思いを抱えていること自体ははっきりと言葉でも語られる一方で、その対象については決して語られない。ただ映像によって、例えばCM撮影時にたまこの手のハートマーク→みどりの瞳が揺れている姿、ここでは見ているもの→見ている人というカットの流れのパターンにより辛うじてその対象が示唆されている。終盤のCM放映シーンでみどりが一人だけたまこへ視線を向ける場面、ここでようやく一画面で関係性が確認ができることとなる。そうして振り返ってみれば最初のたまこがハートを描いていることへの固い反応も納得され、また翌朝の言葉が詰まりがちなみどりも(メタ的に言ってしまえばここでこの二人が描かれること自体も)十分に解釈することが可能となる。第一話のデラの分かりやすい「意識し始める」場面とは対照的に、決してそれが記号的に、「それ」として描かれはしないのである。だがやはりこの回の中心はみどりなのだ。網の目の様な地域コミュニティの関係の中でむしろ燦然と輝く関係性を浮き彫りにしており見事と言う他ない。
年の瀬という珍しい時季から物語が始まる。
昔途中まで観たが記憶よりかなりフォトリアル調な背景だ。
作品タイトルの通り商店街という地域コミュニティに根付いたたまこの生活風景と、そして自意識としても「私はもち屋の娘だからね」とアイデンティティの拠り所となっているのが描かれる。その台詞にデラがときめいて? いるのはちょっと謎だが。「王子の妃を探す」使命を帯びて家系に奉仕する自らと重なる部分があったのか、それとも特に深い意味はないのか。
難しい最終回だった。
新月は当初の願い通りに魔力を消し去る。その決意は美しいが、どうしても新月は本当にそれで良いのかと気になってしまう。
この物語の中で新月の心理がどう変わったかと言えば、満月により彼女の秘された願いが叶えられた事だろう。確かにそれで新月は救われたかもしれないが、しかし本当にそれで悔いなしと言えるのか。「やりたい事はたくさんあります」一人ではできない事もたくさんあるんじゃないのか。
魔力と対立する価値として自然主義的な世界賛美がある訳だが、この成長を止めて混沌を極め続ける(バブル崩壊後、また世界的分断の時代たる平成以後の世代にとってこれはある程度共通認識ではないかと思う)世界に照らしてその美しさを唯々諾々と信じるのは難しいところがある。魔法少女的な文脈において魔法自体の否定によってそのテーマ性を更新しようとしたのだとしたら、あまり成功したとは言い難いかもしれない。
ただはっきりしないのが最後の場面で、この転校生は一体誰なのか。新月の表情や話の流れからすると満月が「ただの人形ではない」→この世界に残った、と読んでも良い気がする(人形ではないというか人形から発展したといった言い方なので微妙だが)。そうすると新月は満月の為に魔力のない世界を願った訳で、話がかなり違ってくるが……。難しい。その内他人の感想も聞きたいところ。
「脚なんて要るか!」水晶のキャラは最後まで素晴らしかった。悠木碧っぽい声のやばい女は何人かいたが(オーバーロードのとか)彼女はやや異なった雰囲気でまた良かった。
「悪いに決まっているでしょう」「千年経っても何一つ変わらない」水晶の魔術師に相応しい人間への思想が覗く。これはマギアコナトスの意思というよりは彼女なりの千年間見てきた事への解釈なのではないか。
「私は新月ちゃんの思いの結晶なんだよ」そう、創られた者はそれ故に存在理由を予め持っている。「本質が実存に先立つ」のだ。
満月にほぼ主導権を握られる形となった新月だが、彼女亡き今果たしてどう戦うのか。
新月の願いは「もし力があれば」などと考えてしまった事への戒め、それにもかかわらずマギアコナトスは彼女の深い心理から満月を生み出してしまう。これを弱さと言うのはあまりに過酷だ。
「なくならないんだよ」「生きてるってこういうことなんだって」高校生にしてこうした論理で死を受け入れる事がどれほどに辛いかは想像を絶する。(弁当はやはりそれでいいのか…? と思うが)それでも満月は新月の願いを選んだ。こんなに辛い話があるか。
寧々と同じ様に勝ち確の流れから掌返しを喰らう九音。後半の鬱々とした雰囲気は素晴らしいが、特に異様と言う他ない水晶の語り、折れ曲がるどす黒いシルエットは強烈だ。人間そのものに対抗心を持っておりいよいよ本当に人間でない可能性が高まる。
細かいが寧々のめちゃくちゃに行儀の悪い坐り方が印象的。
満月は戦う理由を新月に見出していただけに彼女に頼る事もできない。「生きてもないのに!」聞いた事のない荒げた声が悲痛だ。(私は本質より実態を重んじる主義なので、その痛み、感情を感じた事、そう思えた事だけは信じて良いと断言したいが)実感としてその身体はどうしようもなく人間で、その矛盾が彼女を苛む。
姉の真意に気づいて水晶を圧倒する九音、ピアノを背景にした激闘が美しい。ここまで効果的なピアノ劇伴は『ダンタリアンの書架』(作品世界に合わせてクラシックサウンドで統一されていて最高)くらいしか記憶にない。(ピアノ主体でもないがゆるゆり三期の第8話冒頭も素晴らしかった。)
「空っぽ」を克服したかと思えば「もの思う人形」、満月へのあんまりな仕打ちである。アルマノクス(人形)を操る物であった糸が自分に見えるという演出は何ともグロテスク。
「傷を全て抱えていけ」といった事を水晶が言っていたが、これすら満月の受け入れるべきものなのか。「何もないを背負っている」ならば自由意思さえも。
徐々に超人的な精神攻撃スキルを見せる水晶。「戦いが始まる」と言うが流れからすると九音も脱落しそうで恐ろしい。
「何もないを背負っている」第2話で示された満月の理由がここで再び表明されるが、今度は同じ痛みによって新月と通じ合う。前々回の「自分のことが嫌い」という話からすれば、人の願いとは自分自身の為のものだ、あるいはそうあるべきだという事かもしれない。その正否は姉の為に戦う九音の命運が試金石となるだろう。
魔術キーボードや寧々の主観的な聴覚を表現する演出が良い。