メタルと一体化して久島が知った真実、それは地球を循環し続ける海とは天然のネットワークであり、水からなる人間もまた海とつながることでネットワークの一部となれること、そして地球の全情報を記録した海と一体化すれば死者とも会えることだった。
最後の最後でスピリチュアルオチ…。釈然としない最終回だった。ミナモも成長はしたけど、最後まで「女は港」扱いなのが釈然とせず。いや、「女性が、『女性のパブリックイメージ』通りに生きること」を否定はしないけども、それは「バディ」とは言えないのよ。
ユキノちゃんの腹肉(*゚∀゚)=3
メタルと一体化した久島が残した真実を知るためには、ダイバー自身も深海に赴きながらメタルダイブしなければならない! …なんで?
「芸術家はコミュニケートのいらない仕事」…って、クリエイターに対する認識が古すぎる!!!
「電脳化はナノマシンを飲むだけでできて」「世界中が電脳化を前提とした社会になっているのに」「オーストラリア内陸には電脳化が浸透していない」。1行で矛盾してるぞ。
20話かけてようやくミナモが電脳化してない理由が説明されたけど「なんとなく」…「なんとなく」ってお前!!!!(やり場のない怒り)。要するに「ミナモは最初からハルと共に歩む『イルカ』の役割を果たしており、ハルを助けるために無理に変わる必要はない」という話なんだが、電脳化がそこまで不可逆の恐ろしい変化に見えないに見えないせいで「いや、できるなら電脳化すれば?」という感想しかない。
カスミは久島が、ハルの意識が戻ったときのために用意していた義体だった。愛が深すぎる。
地球律とは、地球が「本来の姿」を取り戻そうとする力で、環境を支配する段階に進んだ科学の力(気象分子)と対立してノイズを生んでいた。終盤に向けた対立構造はわかったけど、物語をどう持っていくんだろう。前回も危惧したけど「メタルも希少分子も捨てて自然に生きよう!」なんて安易なオチに走るのだけはやめてくれ。
今回も物語は自然推しで、メタルを介した地球律の力はハルの身体をも回復させた。自然とは循環であり、終わりもまた始まりになるという点で「『頑張る』ことに遅いということはない」というテーマを補強してたけど…この点も正直安易な自然推しのオチに繋がりそうで危惧ばかりが膨らむ。
「最高」の二文字以外に言うことはないです。
真面目な話「メディアミックス作品」の評価って、基本的には媒体は違えど原作と大筋は同じなので「原作愛が伝わってくる!すげ~!!」で終わりがちである。
最初こそ違和感があったアニメ版キャストもアニメを経てすっかり馴染んだし(細谷佳正氏の翔太郎、たまに桐山氏の声と聞き分けがつかない時があるの、ホント声優ってすごいと思った)、ツダケンのおやっさんも彼のハードボイルドさをしっかりと表現していて大ハマリ。
アニメーションも高品質で、特にアクションシーンは白眉。スカルのちゃんと特撮を意識した地に足のついたアクションの再現度もさることながら、原典ではワイヤーやCGでふわふわしているだけだったタブー・ドーパントの「パイプに巻き付きながら移動」「スカルを下半身で締め上げる」などのアニメだからこそできる動きにも「スーツの制約がなければきっとそう動くよな」と納得させる説得力があった。
本作オリジナルの、身も蓋もない事を言えば映画向けのアクションシーンのために作られたキャラ・大嶋(オーシャン・ドーパント)にも、一瞬「この人原作にもいなかった?」と錯覚してしまうほどに馴染んでいたし、原作にないラストバトルは良いサプライズだった。「霧彦以前に冴子が見込んでいた男」って立ち位置、よく考えたなあ。
かつて、押井守が「日本を代表するスーパークリエイターの一人」と持ち上げられ、ネット上でも「オタクの必修科目」のように扱われていた時期があった(記憶が正しければ『イノセンス』『スカイ・クロラ』の頃)。
その頃、高校生になりたてのガキであった僕はオタクとしてのランクを上げたくて、レンタルビデオ店で手当たり次第に押井作品をレンタルして見ていったのだが、当時の僕はあまりに未熟で、押井作品の殆どを理解することが出来なかった。
『イノセンス』『スカイ・クロラ』は、起伏がなくて途中で寝た。
『GHOST IN THE SHELL』『機動警察パトレイバー2』『ビューティフル・ドリーマー』は、画作りには感動したが、話やテーマを理解できなかった。
『アヴァロン』。投げっぱなしジャーマンなオチにキレた。
特に『ASSAULT GIRLS』は、ビジュアル的にもシナリオ的にもあまりにもつまらなくて、「押井守って実はたいしたことないんじゃないの?」と当時の僕は疑惑を持ってしまったし、成長した今でも『ASSAULT GIRLS』だけは認めることができない。
そんな当時の僕が、唯一手放しで「すごい!最高の映画だ!」と感動したのが『パトレイバー the Movie』である。
そんな思い出の映画がスクリーンで見られるという一報を聞き、僕は急いで手近なリバイバル上映を行っている映画館に駆け込んだ。
スクリーンで見たパトレイバーは「あの頃と変わらない」どころか、かつて感じた以上の面白さがあった。
今や「コンピュータウイルス」という題材は目新しいものではなくなってしまったものの、本作は時代の流れで色褪せるようなチャチな作品ではなく、川井憲次の最高の劇伴と共に始まるプロローグ→ドカンと出るタイトルで既に心はブチ上がり、HOSの謎を追う遊馬とその裏でHOSを作り上げ自殺した帆場暎一を追う松井刑事、その間にテンポ良く挟まれるギャグ、そして何よりシゲさんと遊馬がレイバー暴走のメカニズムを解き、特車二課が方舟破壊に向かうクライマックスはいつ見ても最高オブ最高オブ最高。
年齢を経たことで、ガキの頃はいまいちわからなかった押井監督特有の「虚と実の境目を問う(この場合は帆場暎一の存在)」構造や松井刑事たちが地道に足で帆場の正体を探るダレ場の面白さも多少わかるようになったし、本当にスクリーンで再鑑賞してよかった。
『パトレイバー the Movie』を見る度にオジサン思うんだけど…やっぱ押井さんって、誰かが手綱を握って程よく制御したほうが面白いんじゃないかな。
それとも、今見直せば当時は見えなかったモンが見えてくるのかな。
今は落ち着いているものの、かつてはデスゲームなどを舞台に、人間の醜さを引き出して「利己が人間の本質!これこそがリアル!」と謳う作品がめちゃくちゃあった。本作は、そうした「利己こそが人間の本質」と謳う作品の真反対にある作品と言える。
本作には「大事件」はなく、バンド系作品にありがちな「音楽性の違いでケンカ!」「音楽に対するスタンスの違いでケンカ!」「なんもわかってくれない大人とケンカ!」的な要素もまったくない。世間にとっては小さいけど本人にとっては深刻な悩みを抱えた少年少女たち3人が、周囲と、音楽に助けられながそれを乗り越えていく、とても優しい物語なのである。
それでいて本作は「起伏がなくて退屈」なんてことはほとんどなく(ちょっと退屈に思える箇所はある)、不思議と見入ってしまう魅力がある。これはサイエンスSARUの素晴らしいアニメーションも一因ではあるのだが、キャラクター一人一人の魅力をしっかり描いているからだと思う。
その代表が主人公の一人である日暮トツ子。このトツ子がすんごいかわいい。天然でフワッとした言動は可愛く、しかもそこには「いかにもオタク狙いのあざとさ」が全く透けて見えてこない。
そんな彼女が「自分の色を見出だせない」という悩みを抱えながら、きみ・ルイと友情を深め、音楽に打ち込んでいく過程を見ていて、いつの間にか僕は思わず心のなかで「頑張れ!」と彼女を、3人を応援していた。
印象に残っているのが、奉仕活動を終えてルイの元に久々に戻れたトツ子ときみが手を繋いで喜ぶシーン。僕はここで心のウイニングチケットが出てしまい、泣き所でもなんでもないのに「よ゛か゛っ゛た゛ね゛え゛え゛え゛!!!」とちょっと泣いてしまった。
現在進行系でしんどい思いをしていて傷んだ心に、じんわりとしみた大傑作。
監督の中村健治氏の「これは大奥を舞台にした、新社会人の物語なんです(※要約)」という補助線のおかげで大筋はなんとなく理解できたし、TV版と比べると物語はわかりやすかったものの、ディテールに関しては全然把握できず、中盤以降、脳内はずっと宇宙猫状態。
戸惑いながらも唯一理解できたのは、「豪華絢爛」の4文字が相応しい色彩に溢れた大奥やモノノ怪が巻き起こす世界の異変演出の進化、ハイパー薬売りのアクションの進化など、令和の技術力によりアップデートされた「モノノ怪らしさ」の凄まじさ。あらゆるカットが芸術のようで、1秒たりとも目が離せず、「作品を理解できた自信は1ミリもない、でもすごいものを見たという実感はある」という不思議な心持ちでシアターを出た。
「劇場で見てよかった」と断言できる、「芸術を浴びる90分」とでも形容すべきオンリーワンの体験ができる一作。
ストーリー面は小説版を買って補完したい。
ルックバックに関しては、何を言っても安っぽくなってしまう。何を書いても「この映画の素晴らしさを語るにもっといい言葉があるはず」という不満を排除できなかった。おそらく、僕はこの映画をちゃんと評せる言葉を持っていないのだろう。
なので「少しでも『作り手』の側に立ったことのある者として大いに共感し、感動した」とだけ。
いつもより筆が乗ったのでnoteにお気持ち長文を書きました。よかったらみんなよんでね。
ジャングルポケットが駆け抜ける数々のレースの作画はひとつひとつが大迫力、かつそれぞれのレースがきっちりと差別化されており、嫌な言い方をすればただの「かけっこ」であるレースを、ここまでダイナミックに、かつ差別化して描けるものかと本当に感動した。特にポッケがダンツフレームと競り合う日本ダービーは白眉であった。
タキオン、フジキセキ、オペラオーなどのゲームにおける固有スキルの演出を映画向けに改変した演出も、ゲームを知っていると「うまく落とし込んだな」と思ったし、あえて派手な劇伴を廃したことも、現実の競馬と同じ緊迫感を演出することに一役買っていて感心した。
無論映像が素晴らしいだけの映画、なんてことはなく、実際の競馬シーンを「皐月賞でのタキオンの幻影に囚われスランプに陥ったジャングルポケットが、ポッケの走りに希望を見たフジキセキの(ポッケがトゥインクル・シリーズに飛び込むきっかけとなった)走りを見て再起し、タキオンの幻影を乗り越えるべくジャパンカップに挑む」という形に解釈・再構成したストーリーもシンプルながら熱く、手に汗握るものだった。
ウマ娘最大の見せ場である「走り」を魅せることを徹底的に追求した名作でした。
面白かったが、前編で抱いた期待を満たしてくれる内容だったかと聞かれると素直に「YES」とは言えない内容だった。
前作最大の謎であった「現在と食い違うおんたんと門出の記憶」という伏線が大葉のスーパーパワーで「おんたんは門出が自殺した別世界から、今度こそ門出を守るためにこの世界のおんたんに意識を飛ばした」「だが、そのおんたんの行いで歴史が変わってしまい、この世界は『侵略者』の攻撃を受けることになった」と(侵略者が来襲した理由も含めて)足早に説明されてしまったことへの落胆もあるが、一番引っかかったのは世界が滅亡の危機を迎えるクライマックス。
これがいまいち飲み込めず、カタルシスを感じなかった。
本作はものすごい要約すると、主人公(おんたん)が「世界を敵に回してもヒロイン(門出)を救うか、ヒロインを犠牲に世界を救うのか」という選択を迫られる、所謂「セカイ系」の文脈で作られており、おんたんは「門出が生きている世界にジャンプする」という行いのせいで歴史を変えてしまい「本来現れるはずのなかった『侵略者』を地球に呼び込み、世界破滅の危機をもたらす」という罪を背負うことになる。
…はずなのだが、おんたんはジャンプの代償に、兄である(ジャンプ前の世界の)ひろしが最後に伝えた「運命を変えろ」という言葉を除いたジャンプ前の記憶を失っており、世界と門出を天秤にかけた経験も忘れてしまっている。
それゆえに「歴史を変えた罪」を自覚することがないので、いまいち「世界か、門出か」という選択の重みが見ている側に伝わってこないし、ひろしから学んだ「そばにいる大事な人を守ることこそが『絶対』」という作品に通底する(であろう)テーマもいまいち伝わってこない。
しかも、おんたん達は侵略者と地球人の戦いに翻弄されつつもず~っと日常を謳歌しているだけで、結局世界は主人公である門出とおんたんの行動は関係なしに、大葉の献身で救われ、その大葉もなんだかんだで一命をとりとめておんたんのもとに戻ってくる。おんたん達は世界に対して何もしなかったくせに最良の結果を得てしまうのだ。
前章から続くおんたんと門出の「絶対」の友情は尊いものの、おんたんの記憶絡みの設定とラストはちょっと「都合が良すぎる」と思ってしまい、ノリきれなかった。
前章で「ネットの真実」に毒されてしまった小比類巻が「母船の爆発で滅んだ地球で新世界の神になる」とまで言い切る狂人に豹変してしまったのも唐突に感じた(最初は「キホの敵討ちでもあるのかな」と思ったが、それだけであそこまでクレイジーになるもんだろうか)。
前作から続く「日常と非日常の隣接がもたらす不穏」の見せ方や、クライマックスを除く人間ドラマは面白かったものの、個人的には上記した部分のせいでケチが付いてしまった作品。
原作未読。
浅野いにお氏がどれだけメジャーな作家なのかも知らない頭まっさらな状態で見に行ったが、これは大大大傑作が生まれる予感。
非日常が日常になった世界の、おんたんと門出と友人たちの日々そのものも面白いし、その裏でうごめく異常の見せ方も上手で観客の期待を煽ってくる。日常をさんざ見せてから、非日常と日常の摩擦で「上げて・落とす」演出にもショックを受けた。
「A線への恐れから市民活動に傾倒してしまった門出の母親」とか「『ネットの真実』に囚われてしまった小比類巻」といった設定は「震災以降の現実」を取り入れ、かつ解像度も高くて作品の実在感を上げている。
本格的な感想は後章(完結)を待たないといけないが、今のところ不安要素はゼロ。
今は2人に、世界に、平穏と救いが訪れることを願うのみ。
箸休め日常回。「アンラッキーをハッピーに変える」、要するに気を病まないポジティブさがミナモをはじめとする蒼井家の持つ天資ってことか。これは最終盤のキーポイントになったりするんだろうか。
箸休め回。無声映画っぽい趣で面白かった。
バブルに伴う地上げで唐津に引っ越して海に惹かれ、ダイバーになって久島と出会い「地球律」の研究に参加した…ってところか。海に沈んだ都市の廃墟があったけど、この世界でも第三次世界大戦が起きたわけだ。
オーストラリアの内地出身で泳げないミナモや、足で歩くことを諦めたハルを通して「『頑張る』ことに遅いということはない」というテーマを描こうとしているのかな。
ホロンの前屈みおっぺぇ(*゚∀゚)=3
一方的に誰かを「かわいそう」と断ずるのは失礼に当たる、という話。エイミのアーティストとしての顔をあまり描かなかった点は残念だが、視覚がない故に独自の世界が見えていたエイミが「視覚を得る」ことでアイデンティティを失ってしまう、という切り口は面白い。「我々の科学は障害者を絶滅させたと言われるが、それは人の才能を奪ってしまったのかもしれない」という串間の言葉にも膝を打った。ミナモの前向きで、誰とでも距離を詰められる一種の才がエイミをメタルの海から掬い上げ、彼女に前を向かせる、ってラストもよかった。このアニメ見てて初めてミナモに好感が持てたかもしれない。
一ノ瀬は義体化してないのかな。義体化しても「脳の老い」には逆らえないってことか?でも全身義体の久島はピンピンしてるし…本題とは外れるが、電脳化・義体化が当たり前になったら、個人の才能に依存するアートやクリエイションって電脳にデータをインストールするとかして凡人でも再現可能になって、いわゆる「専門職」が衰退してそう。『AIの遺電子』には実際そういう話あったしね。
「才能とは『愛』」。これは至言。「神域の技術はあったが愛という才能を持たなかった者」と「愛という才能はあったが、超越した技術を見てしまったがゆえにそれに呪われた者」の物語。テーマはめちゃくちゃ面白いのに今回も調理が下手。ミナモの「努力し続けることに意味はある」という〆のセリフ、要するに「久島には及ばずとも、あなたの音楽が多くの人間の心を動かしてきたのは事実ですよ」という意図はわかるんだけども、あまりにも言葉足らずだし、久島も後方観客面してねえで顔出せよ。ハルは「君は50年も私を待ってくれた。君が薄情だとは思わない」って言ってたけど、音楽に飽きたからって元後輩のコンサートを50年辞退してたのは薄情以外の何者でもないだろ。
人と話しすぎて人を知りたくなったチャットボット…という切り口は令和の今のほうが「ありそう」と身近に思える。時代が追いついたね。
ここに来てようやくミナモが活躍。なんであんな潜水服みたいな装置が必要だったのかはわからんが、生身の人間でもメタルには入れるんだ。「海」モチーフに合わせて潜水服っぽいガジェットを作ったのはわかるけど、説得力がない。いつもつけてるヘッドギアじゃだめなの?「メタルの水圧に拘束されてなおハルのもとにたどり着く」というシーンありきで小道具を作ってないか。
「言葉よりも行動(心)が雄弁に語ることもある」というオチは理解できるものの、そもそもミナモがなんでハルにあんな入れ込むのかがわかんないんだよな。自分を対等な存在として認めてくれたから?まだ約1クールあるし、ミナモが電脳化していない理由も含めて今後語られるのかな。
そして久々に語られた「地球律」。やっぱり「地球の意思」って理解でいいのかな。