サービス開始日: 2020-08-10 (2073日目)
本日の夜実況は問題回、アンラブリーの登場回w
アンラブリーがキュアラブリーのメンタルを攻め立てるけど、よく聞くと特別に大したことは言っていない。
褒められると調子にのっちゃう。…え、普通じゃないですか?
悩むキュアラブリーに「らしくない」と喝を入れるのは、最近進境著しいキュアプリンセス。
「悩むほどのことじゃない」、どうやら彼女も同じ感想だったようだw
3回目。劇場で観るのは多分これが最後。以降円盤で。
一旦一区切りなので、以下余談。ネタバレあり。
コメコメの夢は、ゆいの様なヒーロー(プリキュア)になること。過去作のプリキュアたちの扱いに関わらず、コメコメ視点ではプリキュアは大人と描写されている。
ケット・シー視点のプリキュアは、大人ではなかったり(自分のように汚れていないから)、大人だったり(自分に敵対しているから)、不明だったり(技術的に判定が難しいから)状況によってさまざま。
大人(ヒーロー)とは、ゆいが迷子の女の子に見せた様な優しさであったりする一方、大人でもお子様ランチを食べても良かったりして。大人と子供は線引きできるようなものではなくて、誰かの力になりたいという、コメコメが言うヒーローのような「精神」を指していたのかも。
そして、「プリキュア好きな大人が居てもいい」。日常の顔はヒーローである、プリキュア好きな大友たちへの応援だったかも知れない、劇場版最新作であった。
本日の夜実況。
クイーンミラージュを倒すのではなく救うという目的が改めて提示される重要回。
プリキュアたちやまわりの人々の心がよく描かれていて、ミラージュを救わねばならない説得力につながっている。さすがは成田さんの担当回。
いおなとゆうゆうのコンビは大変絵になる。このふたりが語り合う描写もこの回から。
ブルーは300年前に、クイーンミラージュと知り合ったという。
8話に登場した伝説は、1000年前のぴかり神社の巫女についてのもの。それはクイーンミラージュ本人としか思えないエピソードだったけど、成田さん、設定がブレてませんか?w
「さかな〜」
なんというお洒落な会話劇w たきながガードを解いて、ちさとに歩み寄っていく水族館シーンが心地よい。
3話で一区切りついたあとの、新展開の幕間かと思えば。
1クールのシリーズ構成で完全な幕間回なんて挿し込めるわけもなく、相変わらず密度が濃い。
本日の夜実況。
キュアハニー推しだからというだけでなく、「ハワイのプリキュア」という設定が既に楽しい回。
アローハプリキュアが結果を出せないのは、ふたりの協力が足りないという態度の問題だった。
日本から弁当持参で「おなかいっぱいになったら、話を聞かせてくれないかな」と、持ち前の包容力でふたりの関係を修復するゆうゆう。
戦えばすばらしいユーティリティプレイヤーっぷりを発揮。
まさにキュアハニーの「あいつひとりでいいんじゃないかな」という回だったw
本日の朝実況。ネタバレあり。
みのりんの自信のなさの大元は、結局は「マーメイド物語」での失敗に向き合えないことだった。
目の前で苦戦している友達を救う為にプリキュアになることも、「ローラの尾ひれに触れる」ことも、どちらも同じこと。それを決断する為には、少しの勇気が必要。それらの課題の克服を彼女は「リアル」と呼んだ。
現実に向き合い、困難をひとつずつ克服していくことが夢につながっていくとされる。その都度必要になるのが勇気であるという位置づけ。
ある意味、キュアパパイアは仮免プリキュアなのかもしれない。でも実際にはプリキュアに変身することもできるし、本作は「それでも構わない」というシリーズなのだろう。この物語でのみのりんのテーマは、勇気なき者が困難を克服し、最終的には創作活動に復帰すること。
夢をつかむ為に必要なのは、現実での困難をひとつずつ克服することの積み重ねである。…その様なシリーズ構成を俯瞰できる、1周したあとに改めて観ると感慨深い回だった。
みのりんの創作物である未完の小説「マーメイド物語」は、人魚姫を意識したもの。
本物の人魚であるローラは、人魚姫が泡になって消えたと聞いて憤慨した。曰く「人魚姫の気持ちが理解できない」と。ローラ自身ものちのち、人間のような足を得てプリキュアになるが。人間と人魚に自在に変身するローラの活躍は痛快で、人魚姫のような悲しい展開や結末はトロプリから意識的に排除されている。
人魚姫にある儚い悲劇として要素は、秋映画のゲストキャラである「雪のプリンセス」シャロンに引き渡されたのかもしれない。
2回目視聴。以下ネタバレあり。
物語の最後に和解した以上、敵キャラの気持ちもわかりたい。悪事を行っていたとしても、動機や行動原理に「一理ある」部分を見つけたい。
常々そう思ってプリキュアを観ているけど、敵キャラであるケット・シーの気持ちは視聴2回目でもよくわからなかった。
大人の科学者たちが、ケット・シーを騙していたことがほのめかされている。
しかしこんなことで、「大人」という格別に大きな主語で善悪の線引きをされてしまったら、その大人のひとりとしてはたまったものではない。ケット・シーの言う大人・子供(つまりは善悪の境界)は、曖昧にしか明かされなかったこのエピソード同様のふわふわしたものだった。
エナジー妖精たちは子供。マリちゃんは大人。ゆいたちは中学生だから子供。プリキュアは最初は不明(△)だったが、ケット・シーに敵対する行動を取ったことによって、最後には大人の側に分類された。ケット・シーが自分に都合の良い基準で「大人」を線引きしていたことは、この悪役への共感が難しいことにつながる。
一方のプリキュアたちも、その時点ではまだ自分たちに危害を加えていなかった警備ロボットと戦う為にプリキュアに変身した。
本作全体の善悪観がふわふわしていたと感じる。
本編での扱いに関わらず、ED曲はドリーミアのテーマソングだった。ドリーミアの本質は、最終的には善であったと扱われていた様だ。
コメコメも気付いていた通り、ケット・シーが用意したお子様ランチやアトラクションが子供たちを楽しませていたことは確かで、なるほどそれは、ケット・シーに残されたわずかな善性だったことは間違いないのだろう。
だからこそ彼は、自身の罪の償いについて「コメコメのようなヒーローに自分もなりたい」と言うのではなく、「大人も子供も楽しもう」と言わなければいけなかった。大人と子供の垣根なく、皆がドリーミアを楽しむラストシーンが最後に必要だったと思う。
そう、「大人も子供も、お子様ランチを食べてもいい」。
なごみ亭に集まった皆に、ゆいママがお子様ランチを振る舞うラストシーン。この償いは本当はケット・シーがしなければいけなかったことだけど、その代わりとして、まぁ悪くない。
初見の時に感じた程は、この作品のストーリーは悪くないなと2回目に思い直した次第。
最後に冒頭、ゆいとケット・シーがお子様ランチを食べる回想等について。
このシーンのゆい、ケット・シーに向けた満面の笑顔は素晴らしい。デパプリは初回冒頭、ゆいがおにぎりを食べるシーンも印象的なものだったけど、このキャラクターには人を惹きつける絵ぢからが確かにあると感じる。
ゆいとコメコメは、彼が今もお子様ランチを作り続けていることから、上で述べた様な「わずかな善性」を見つけ出た。ケット・シーの気持ちは今回もよくわからなかったけど、一方のゆいやコメコメの気持ちは尊いものだった。
本日の夜実況。
ひめのドキドキを「つり橋効果だった」でまとめてしまうのは感心しない。
ひめはちゃんと誠司のことが好きだったでしょう。
そのほろ苦さを描くつもりがないのなら、この回自体がないほうがよかったぐらいだなぁ。
本日の朝実況。前田愛生誕祭を兼ね。
馬上戦闘の格好良さから、どうしてもこの回を選んでしまうけど。
気迫あふれるキュアアクアの雄叫びと同様、かれんがミルクに向ける優しい表情の作画もすばらしい。
本日の夜実況。
前回から引き続き、ひめ×誠司の展開。
誠司をいじっていた時のひめの表情が、たまらなくウザくてよかったw
別人のように成長したひめだが、以前と変わらない一面も持っている様で少し安心する。
2回目視聴。
クッキングダムの「おむすびの花」とか「おかず池」とか、頭おかしい設定が最高に楽しかった。(ほめてる)
セクレトルーは戦闘能力もさることながら、隠密行動に長けている。
その名の通りの「怪盗」らしい動きをしている敵幹部は初めて。曲者っぷりの描写がいい。
理由もなく過去キュアを登場させるのは好きではない。
ラストの脈絡ない登場は蛇足と感じた。
本日の夜実況。サブタイ通りだが、笑えるぐらいフラグが立ちまくる。
次回の展開にもつながっている、ひめ×誠司がなにげに重要。この関係をもう少し丁寧に描いて欲しかった感はある。
入ったばかりのいおなが、既に気配りさんキャラのポジを築いていて好感。
ゆうゆうは達観しすぎていて、もう別格。皆と同じ中2だというのが怪しく感じるほど。
ジャンプコミックス36巻収録分。
「ぼくのトモダチになってよ…!!」
幼いダイの神々しい台詞に、全てを持っていかれた。この様な安易な表現を使いたくはないが、まぎれもない涙腺決壊回である。
最終決戦の真っ最中、言わば決着の直前にこの様な情緒あるエピソードが挿入されるのがダイ大の懐の広さ。ジャンプらしいバトル漫画でる一方、この懐の広さでは他作品と一線を画する。
また、この回の演出スタッフとして、タナカリオンこと田中裕太氏をお迎えしたことを喜びたい。同氏はプリキュアファンなら知らぬ者のない、東映のエース演出家だ。(演出家の枠には収まらず、監督としてもいくつもの良作を手がけている)
それにしてもゴメちゃんの正体や真相が、これほどのドラマを生み出すことを初見では全く想像できなかった。
というのも、ゴメちゃんがごく普通のマスコットキャラであり、正体に特に秘密などがなくとも、物語として特に不自然なところはなかったから。ゴールデンメタルスライムという希少種はいてもおかしくないし、その程度に特別な設定もご都合主義にはあたらない。
ゴメちゃんは自分の正体である「神の涙」について、「地上の力なき生物たちの苦しみを嘆いた神々が、地上に落とした一粒の涙」であるという伝説を語った。
大魔王や冥竜王は地上や太陽といった豊かな創造物を、脆弱な人間に対してのみ与えた神々のことが許せなかったという。「神の涙」は言わば、その贔屓へのさらなる上乗せであり、大魔王にとってゴメちゃんは憎悪の対象でしかないだろう。
ゴメちゃんを文字通りにモノであるかの様に、ぽんぽんと弄んでいた描写からも(アニメオリジナルのシーンだけど、この描写はタナカリオン采配なのかも)、少なくとも愛情は持っていないことがわかる。
しかし、自ら善悪を判断して「トモダチになってよ」というあまりに純粋な願いを叶えたゴメちゃん(こと「神の涙」)や、その「神の涙」を創造した神々の本質が悪であろうはずがないとも思う。
神々は本当に大魔王が言う様な、理不尽で許し難い存在だったのか?自分たちに太陽が与えられなかったことは、確かに許せることではあるまい。その答えは、「では結局、太陽とは何だったのか?」という疑問と共に答えられるかもしれない。
ポップがカイザーフェニックスを魔法力で切り裂く、原作でも大好きだったシーン。ここは恐らくタナカリオン氏により、原作以上に見ごたえあるアクションシーンへと魔改造されている。
自分はこの名前のない技を、ストレートに「神業」と呼んでいる。恐らく、メドローア以上に難度の高い技術であると想像して。
別の場所で話したことがあるけど、この「神業」から更に想像できることがいくつかある。以下、その想像というか妄想。
本日の夜実況。
浜辺でトレーニングしていただけの、まだ特に悪事を働いていないオレスキーたちを奇襲したのはプリキュアたちのほう。
楽しい回だけどちょっと気になった。
ここにきて「恋愛禁止」が急にクローズアップされ始める。ブルーはこのルールにもっともらしい理由をつけているが、説得力ゼロ。
プリキュアたちが、このルールを守る気がある態度を全くみせないのが笑える。この回の真の笑いどころはここかも。
本日の夜実況。
ふたりの真の和解が描かれた、ハピチャ屈指の良回。ギャグ回の印象が強いけど、Bパートはむしろ泣かせるシーンが多い。
前回はとてもがんばったひめだったけど、今回描かれているのはいおなの側からの歩み寄り。
それにしても、アクシアをそのへんに放置していた管理責任が何故問われないのか。
クイーンミラージュが封じられていたのに、何故祈りを捧げる対象になっていたのか。
「たとえコメコメでも、わたしの大好きなコメコメを、ダメだなんて言うのは許さない!」
皆の役に立ちたい、エナジー妖精コメコメの葛藤。
しかし、食への愛を力に変えることができるプリキュアたちに対し、そばに居ることそれ自体でプリキュアの力になっていた。この回のおばあちゃん格言「しあわせの味は明日への道しるべ」はそんな意味だろうか。
作戦会議の最中に、ゆいが山盛りのおにぎりを持って登場したとき、「このキャラは強いしブレないな」と思った。
ナルシストルーの退場回だけあって、戦闘には見ごたえがあった。このあと、ナルシストルーが食を憎む理由が描かれるはずと期待。
本日の夜実況。キュアフォーチュンとの和解を含む折り返し回。
繰り返しになるけど、キュアフォーチュンがかなえた願いが、一度は失ったプリキュアの力を取り戻すことだったのが熱い。
プリカードがかなえた願いは、「プリキュアの力を取り戻す」ところまでだったとブルーは言った。
キュアフォーチュンが単騎でファントムを圧倒するほどに強くなったのは、友達を思う強い愛の力あればこそであると。
もともとキュアフォーチュンは、神に認められてプリキュアになったわけではない、言わば無免許運転だったのだろう。
友達を救うことを強く願ったキュアフォーチュンは、まさしくプリキュアの資格を獲得し、真のプリキュアになったのだ。
ジャンプコミックス36巻収録分。
表紙裏コメントは三条先生。まさにこの「閃光のように」について。
ファンにとっては言わずと知れた成句、「閃光のように」の元ネタにあたるこの回。まずは「原作と寸分違わず映像化してくれてありがとう」と、スタッフに感謝したい。
多くの名言をもつダイ大の中で、まぶしく燃え生き抜く人間の生き様について語った今回のポップの台詞を、メインテーマそのものと解釈したファンも多く居るだろう。新アニメが始まってからこの回の放送日まで、自分も、まずはこの台詞を聞く為に視聴を続けてきたと言っていい。
三条先生の表紙裏コメントによれば、この回の原作はいわゆる「キャラが勝手に喋り出した」ことで生み出されたエピソードだという。
自分は物語を書く人の中には2種類いると思って、それは「憑依」タイプと「神の視点」タイプと。自分が「憑依」の概念について認識したのは、新沢基栄先生が代表作「3年奇面組」(のちの「ハイスクール奇面組」)のネームについて同様のことを語った時のことだけど。
他にも多くの作家氏が似たような経験についての証言をするにつけて、「物語に必要なのは、まずは魅力的なキャラクターづくり。各種設定はキャラクターを引き立たせる為の要素に過ぎず、プロットは自然と生み出されるぐらいが理想」と考える様になった。憑依が出来るタイプの作家さんには、特に言えることだと思う。
熱量高いが展開自体は論理的なダイ大に於いて、三条先生は後者の「神の視点」タイプだと思っていた。しかし、この回ばかりはポップに「憑依」したと語っているのが興味深い。
その一方で、この回の要素。
例えば、メルルが「地上の仲間たちは無事」と報告することも、大魔王と冥竜王が「雲の上の会話」をすることも、ロン・ベルクが「今までの生涯に匹敵する輝きがあった」と言い放って大魔王に反抗することも。これらの要素全て、ポップが死生観すら超えた「閃光のように」生き抜くことへの矜持、そこにたどり着く為のヒントとして用意されたものだったと気付く。
ポップに「閃光のような」生き様を語らせるという脚本上のゴールがまずあって、このゴールに到達する為の要素を周到に配置。この回はまさしく「憑依」と「神の視点」の両方を併せ持ったエピソードだったのではないかと。
三条先生が別の機会に、ポップのことを「口語などが自分と全く同じ」分身のようなキャラクターであると語ったことがある。
憑依には「天から下りてくる」頂き物であるかの様なニュアンスがあるけど、創作者の戦略として、物語の中に「自分自身の分身を配置する」という方法論があったのかもしれない。
そう考えれば、最後の「バッカヤローッ!!!!」は三条先生ご自身の口癖だっただろうかw
本日の夜実況。
キュアラブリーやキュアハニーが居れば、自分は強くなれる。では仲間がいないキュアフォーチュンは?
過ちを詫びたいという気持ち以上に、仲間としてフォーチュンの力になりたい、友達になりたい。
よくぞそこに気付いた!という、キュアプリンセスの素晴らしい成長である。
この回でキュアフォーチュンへの自分なりの償いを見つけたことが、次回の感動の和解につながっている。
シリーズ構成、成田さん直々の脚本回。改めて観たらとてもよい回だった。
ゆうゆうのまったく意味のないひよこ変身の印象も強いがw、ギャグ回では決してない。
本日の夜実況。構成上は必要な回だから、少しぐらいつらくても我慢して観る。
リボンがひめのことを「最近少しだけ前向きになった」と評した。自分もそう思うし、その視点からは、例えば2話はとても感動的な回。
この様な状況で、めぐみやゆうゆうの友情を信じることが出来ない、自信のなさがひめが抱えている問題の本質なのかも知れない。
施錠もされてない部屋にアクシア置いていたのは、どう考えてもブルーの管理責任で。
何も知らなかったひめを責めるのは酷というもの。
プリンセスの為にひとりがんばるラブリーや、ラブリーとフォーチュンの共闘シーンは熱い。
本日の夜実況。
この年の芸人枠は、芸人と言ってよいほど露出をしてたゴン中山氏。
本人役とはいえ、演技も割と上手い。
キュアフォーチュンの感じの悪さは、この回では一旦おいといて。
アクシアを開けてしまったことを正直に告白するように、ブルーがひめを諭すシーンがある。一見、大人の立場でひめをやさしく叱っている様にみえるが、アクシアに災い(クイーンミラージュ)を封印した張本人がブルーであることを忘れてはいけない。
そもそも、決定の先延ばしに過ぎない無責任な「災い」の封印は、ブルーが自分の判断で行ったこと。
にも関わらず、ひめがアクシアを開けてしまったことや、それを隠していることを咎めることができる立場なのか?
ジャンプコミックス、35巻から36巻にかけて。
36巻の表紙裏コメントは三条先生。次回放送分の内容について触れているので、この話題も次回に。
「天地魔闘の構え」との決着は、シャハルの鏡からのアバンストラッシュXという、劇的な展開で締めくくられた。
この状況でダイが繰り出した技が、ギガストラッシュではなくアバンストラッシュXだったという、この展開が好きだ。アバンストラッシュXは、そもそも大魔王と戦う為の技としてダイが生み出したもの。ダイがこの技に懸けた想いが遂に果たされた。
感慨にふける間もなく、目まぐるしく次の展開が始まる。
ダイは背後から大魔王に接近し、大魔王の心臓に「ダイの剣」を突き刺すという不意打ちを敢行。
一瞬…であった………!!
大魔王がストラッシュXで腕を切断され、
よもやの事態に我を失ってから、この瞬間まで!!それは時間にしても…
1秒にも満たない間だった!!だが…その間に!!!
ダイは次の行動を起こしていた…!!!
自分は、原作のこのナレーション(改行句読点等、若干編集あり)がとても好きなのだけど、アニメではまるまるカットされている。
ナレーションのない本作で、このナレーションがカットされることはだいぶ前から予想していた。漫画とアニメーションは表現として異なるものだから、アニメーション作品にとってこのナレーションがノイズであってもそれは理解する。
しかし、たとえナレーションを抜きにしても、原作では5ページも使って読者の度肝を抜いたシーンなのだ。それにしてはこのシーンはあっさり過ぎないだろうか?
ナレーションに代わる演出がなかったのが残念。「とても良い」を「良い」に減点しているのはそのせい。
一方、ここで地上に場面転換して、メルルの指がぴくりと動く描写が入ったのはよかった。
ピラァ・オブ・バーンについては、もう言葉もない。
ポップはシャハルの鏡という切り札を最後まで隠し通したけど、同様のことをもっととんでもない規模で大魔王にやられてしまった。
ダイは老バーン戦での敗北に続き、2回目の絶望。しかも今回は「戦う意味」という、もっと根元から心を折られてしまった。
ここばかりは、大魔王のほうが何枚も上手だったという敗北感だ。