友人たちと二度目の鑑賞。
展開にいちいちコメントを入れながらみんなでワイワイ見るのも、一人で映画館で見るのとはまた違った面白さがある。
二度目の鑑賞にもなると、一度目に見えてこなかったものがいろいろ見えてくる。今回も楽しめたが、前回と違って明確に気になったのが「『過程』を描くことがおろそか」ということだ。理屈よりも「こういう画を、こういうシーンを作りたい」という感情が先行しているように感じた。
例えば前半のNYでのμ'sの行動。
シーンの一つ一つは面白いのだが、後半に尺を割きたいこともあってか、「繋がり」として見ると疑問を浮かべるような部分があるし、「どうしてそのシーンに至ったのか?」という過程が飛んでいるところもある。
タイムズ・スクエアで行われる「Angelic Angel」のライブシーンはまさにそうで、ライブ自体は素晴らしいのだが、そこに至るまでがバッサリ抜けている。
(劇中の)ラブライブ運営サイドから「NYでライブをしてラブライブにハクをつけて」というお願いを受けた、という理由付けは冒頭でされているが、そこまでにあったはずの「ライブに最適な場所を探す」という過程がなかったかのように無視されている。
凛の「この街は何かアキバに似てるよね!」という言葉も凛の説明もあって理屈はわかるのだが「そんなに言うほどNYの住人と接したか?」と思ってしまう。
この「過程をすっ飛ばす」という悪癖を強く感じたのが、クライマックスのスクールアイドルを集め、アキバを貸し切っての一大ライブ。クライマックスの展開としてはこれ以上なくいいのだが、ここはよく考えなくても変だ。
まず、μ'sはスターになったとはいえ、彼女らは所詮学生にすぎないし資金力を持ってもいない。スクールアイドルの先駆けといえるA-RISEの助力があったとはいえ、アキバを丸ごと使えるほどの力は絶対に持っていないだろう。かなり非現実的なシーンになってしまっている。
アキバ一帯を貸し切るなんて、それこそラブライブ運営が目指していた「ドームでライブを開催する」よりも非現実的ではないだろうか?ドームはスケジュールを押さえれば使えるだろうが、秋葉原は生活圏で交通路もある。そこをセットの設営などで何日も潰せる、というのは無理があるだろう。
更に、劇中でも主に三年生組に「もう時間がない」と言わせているにも関わらず、「各校のスクールアイドルを集める」「アキバライブ用の新曲を作る」「ライブ用の振り付けを考え、しかもそれがライブに参加する全員に行き渡っている」「ステージを作り上げる」という作業が全て完了しているのもご都合主義感がある。μ'sとA-RISEの会話を聞く限り衣装はありあわせで間に合わせたようだが、それでもこれだけのことを短期間にこなしたなら、「殺人的」という形容すら生ぬるい超過酷スケジュールになってしまうだろう。
「最高」だの「最悪」だの同じラブライバーの中でも賛否が割れる一作ではあるが、個人的には「そこまで持ち上げられる作品でも、貶められるような作品でもない」というのが素直な感想。
ただ、僕のような理屈重視(笑)で作品を見る人にはちょっとモヤッとするところはあるかもしれない。こういう理屈を「些事」と割り切れるような人であれば、もっと評価は上がるかも。
TV版ももう3年前なので細かい展開は忘れてしまっていたが、大筋はわかっていたし、本作特有のノリは見ている内に思い出せた。チームラビッツのザンネンさと、そのザンネンさからくるどこか「しまらない」感じは相変わらずで安心させられる。
「イズルが欠けたチームの面々が彼の復活を祈りながらも、今度は『イズルにとってのヒーロー』になろうと奮戦する」というストーリーの流れも悪くなく、チームラビッツのメンバーやゴディニオンのクルーなど、主要人物たちにちゃんと見せ場が用意されているのはグッド。特にイズルの欠けた穴を埋めるべく、リーダーとして一生懸命振る舞おうとするアサギや、いつものブチギレ芸を見せながらもチームを思いやる一面を垣間見せたアンジュはカッコいい。
だがストーリーよりも何よりも、見るべきはTV版から更に進化したアッシュ(ロボット)のフルCGアクション!「コードギアス 亡国のアキト」でも神がかったアクションシーンを描いたオレンジの手がける各アッシュのスピード感・躍動感に溢れた超絶アクションにはとにかく脱帽。
TV版と同じく速すぎて何をやってるかわからない部分もあるものの、どのアッシュも時にダイナミックな、時に精緻な動きを見せてくれるので見ていて飽きない。レッドファイブのビル群の隙間を抜けながらの高速戦や、敵に吹き飛ばされて地面を転がるなど細かいシーンにも不自然さがなく、この品質の3Dアクションを劇場で見られるというだけでお金を払う価値がある、と言ってもいいほど。
ここからは気になった所。
ストーリーは面白いところもあるが、TV版と違ってウルガル側の人物とのドラマがないことに加え、上映時間もあってやや薄味で、圧縮されている感がある。特に前半はTV版の回想(オペレーション・ヘブンズゲート後半~イズルとジアートの決戦)にも時間を割いているので、圧縮具合に拍車をかけている。
TV版の頃からMJPにストーリー面での「深さ」はあまり求められていなかったのでファンとしてそこまでがっかりしたわけではないのだが、コレの割りを食ってチームフォーンら新メンバーがあまり活躍できなかったのは残念。彼らは鳴り物入りで登場したにも関わらず掘り下げが足りず、活躍も少ない。一言で言えば彼らはディオルナの噛ませ犬でしかなく、後はドーベルマンのメンバーとともに無名のウルガル兵を倒していただけだ。ちょっとかわいそうな気がする。
前半の回想シーンはジアートvsイズルの戦いをスクリーンで見れたのは良かったが、このあたりは削ってもう少しチームフォーンの面々の掘り下げに当てても良かった気がするし、最終盤でラビッツの支援に駆けつけるぐらいの見せ場はあっても良かった気がする。
また戦闘シーンは基本素晴らしいのだが、一部カメラワークが遠すぎて「もっと細かいアクションが見たいのに、見れない」シーンがあったのも惜しいところ。
更に言えば、せっかくフルバーストモードでの戦闘を披露したブルーワンがディオルナに瞬殺されてしまうのも個人的には不満。もっとあのアクションが見たかった…。
進化したオレンジのアクションをスクリーンで見れただけでも大満足な映画。さらなる進化を遂げたオレンジの超絶アクションをスクリーンで堪能しよう。
全体的にシナリオの出来はよく、前~中盤の群像劇パートから後半の盛り上がりという序破急の流れはしっかりしているし、性急さも退屈さも感じることはなくいいペースで、安定して進んでいく。
メインキャラの感情は魅力ある描き方をされていて、「不快」「ウザい」キャラはいないし、キャラクター性も一貫していて好感が持てる。人間関係もわかりやすく、不器用な少年少女がぶつかり合い、すれ違いながら団結していくドラマ部分はきちんと「青春」している。
そして中盤以降、クラス全体でミュージカルに取り組むことになってからはミュージカルを軸に4人の実行委員とクラス団結を描きつつ、順と拓実の関係を描いていくのだが、このミュージカルシーンに合わせたクライマックスの構成には唸らされた。
プロローグで幼少期の順が犯した過ちからはじまり、物語の根幹には「言葉」というテーマがある。「言葉に出さなければ感情は伝わらない」という普遍的なテーマなのだが、これもきちんとブレずに一貫している。
中盤、罵り合う野球部の面々に叫んだ順の「言葉で傷ついたものは元には戻らない」という台詞や中学時代の順と菜月の恋愛関係解消の理由など、物語の重要な部分で「言葉」が大事な意味を持つ。
そしてクライマックスの展開だが、ここにひとひねりがある。幼いころのトラウマが原因で「喋ること」を封じられたヒロイン、成瀬順と、物静かで何事にも関心を見せない坂上拓実が、高校の地域交流会をきっかけに接近し、紆余曲折を経てトラウマを克服し結ばれる…というのが公開前の情報を見聞きした多くの人の想像する大筋だろうが、そこは歴戦のスタッフ、そんな陳腐な物語で終わるはずもなかった。
このクライマックスが本作を単なる「甘酸っぱい青春ドラマ」に終わらせない大きな要素となっている。
個人的には、このクライマックスで本作の評価が上がった。
美術の出来もよく、田舎町の空気感であるとか、高校の描写はいかにもな「それっぽさ」があり作品の雰囲気作りに貢献している。
しいて突っ込みどころがあるなら、青春ドラマゆえ致し方ないが若干「物語がキレイすぎる」のは人によっては気になるか。
「理不尽な故障で甲子園の夢を絶たれてやさぐれている」という理由があるとはいえ若干改心が早すぎる感のある大樹もそうだし、順の必死な姿勢を通じてのクラスの団結もややご都合主義な感はある。
しかし、シナリオの全体の出来の良さに比べれば大した問題ではないというのが個人的な感想。
総合すると、美術、音楽、シナリオといい所を押さえた名作。
アニヲタでない人も楽しめるはず。
TV版に登場した後輩組の成長と活躍や、新たに登場する「ミールに依らず、自ら存在することを選んだフェストゥム」来主操とボレアリオスミールとの対話、相変わらずかっこいい大人たち、そして春日井甲洋の竜宮島への帰還など、ファンにとっての見所は多い。
特に操はTV版にはなかった個性の持ち主で、「総士の意志に共感して存在することを選び、人間のような反応を見せる」「だがその意志は憎しみを学んだボレアリオスミールからの指令に縛られており、『フェストゥムの『神』たるミールの意志』と『『来主操』という存在としての意思』の板挟みになる」という面白いキャラクター。この物語は、人間サイドだけでなく「来主操の成長物語」としての側面もある。
シリーズからの続投キャラクターの成長も、見ていて微笑ましいしかっこいい。特に弱気な変性意識を乗り越え、名実ともに「頼れる先輩」となった剣司、すっかり竜宮島に染まってかわいくなり、戦いでは相変わらずの勇猛っぷりでファンを安心させるカノンなどは、TV版の姿を知っているだけに「成長したなぁ…」と思わせる。
TV版では芹以外いまいちスポットが当たらなかった後輩組も、戦いでは果敢な活躍を見せる。特に第2次蒼穹作戦での活躍は、先輩組に勝るとも劣らない。
そして最終局面での操と一騎の激突、意外な「ある人物」のアルヴィスへの帰還、そしてボレアリオスミールとの戦いと対話は、クライマックスを飾るに相応しい盛り上がり。特にラストシーン、雲海の上で黄金色の空を背景に対峙するマークニヒト(操)とマークザイン(一騎)は、BGMも相まって「劇場で見たかった!」と思わせる荘厳さだった。
オレンジの魅せる3Dの戦闘シーンは素晴らしい。
最初のマークザイン出撃→戦闘→そして先輩チームの華麗なチームワークによる戦いは一気に引き込まれる魅力がある。その後ちょいちょい挟まれる後輩組の戦い、そしてラストバトルである第2次蒼穹作戦と、非常に燃える。
ここからは問題点。
物語は全体的にスピードが早く、掘り下げが浅いまま進んでいく感がある。もともとファンしか見ない映画と割り切って細かい説明は省いたのかもしれないが、ファンからしてもやや詰め込んでいる感じがする。
特に後輩組のキャラの薄さは深刻で、先輩組と操に出番をかなり奪われている。後輩組は一応TV版にも出演していたのだが、出番は少なく、特に西尾姉弟は名有りのモブクラスの出番だったため、実質的には新キャラのようなものだ。それにも関わらず、辛うじて行美の口からバックボーンとゼロファフナーとの関連が語られるくらいで、中盤の戦闘シーンまで目立つ場面が殆どない。「かつて両親を試作型ファフナーの起動実験で失い、特に弟の暉はそのショックで失語症を患った」という実はかなり重い設定があるのだが、劇中では明確には触れられない。
広登も剣司への対抗意識は目立つが、それ以外の掘り下げは薄味。後輩組の中では唯一TV版でも大きな存在感があった芹も、中盤にはファフナーを降りて竜宮島ミールの負荷を肩代わりする役を担い、ほとんど退場してしまう。
ここらへんはもうちょっと掘り下げて欲しかったところ。
ポリゴン・ピクチュアズ手がける3DCGは「シドニア」同様、原作のテイストを上手く映像に落とし込んでおり、緻密でありながらどこか無秩序で、スケールの大きな都市(超構造体)の景観を見事に再現している。
自然と生命の気配がまるでなく、暗いライティングやマットな質感で統一された、いわゆる「ポストアポカリプス」の世界を見ているだけでも面白い。
再現度が高いのは美術だけでなく、弐瓶勉の特徴である硬質なフォントとデザインで構成されたユーザー・インタフェースが映像として動いていると言うだけで興奮が止まらない。づる達が着用する装甲服(のヘルメット)や霧亥の視界に投影されているUIデザインは、昨今のSFアニメの主流となっている「円」をデザインの軸にしたいかにも未来的なものと比べて無骨さがあり、こちらも都市の風景同様、見ているだけで心ときめく。
視覚的な面白さもさることながら、今作を語る上で外せないのが音響だ。菅野祐悟のBGMは電基漁師の一行に迫りくる駆除系の恐ろしさや駆除系との戦いにおける緊迫感を引き立てているし、終盤の霧亥vsサナカンの戦いのクライマックス、重力子放射線射出装置をづるから受け取った霧亥が再起するシーンの盛り上がりにも非常に貢献している。
原作で「ギン」という独特な擬音で表現されていた、本作の代名詞とも言えるアイテム「重力子放射線射出装置」の射出音もインパクトがあり、「射線上をきれいな円形にくり抜き、消し飛ばす」という映像面での凄まじさもあって、非常に印象に残る。
ストーリーは先述の通り原作のあるエピソードを元に、独自の肉付けをして映画オリジナルのエピソードに仕立ててある。
原作はドラマやストーリーよりもビジュアル面に重きをおいていたが、流石にそれでは映画として面白くないためか、電基漁師のづる達を軸にした明確なストーリーが用意されている。
このストーリーもいい塩梅で、意外性はないものの起承転結はしっかりしており、ハッキリとした悪い点やツッコミどころもなく、安心して見ることができた。
クライマックスの盛り上がりも熱く、特に先にも記したボロボロになった霧亥の再起、そしてそこからの逆転劇は文句なしにカッコいい。
トレーラーでも使用された、霧亥がサナカンを睨みつけながら重力子放射線射出装置を構えるシーンは鳥肌モノ。スクリーン越しに霧亥の目に宿る「殺意」がはっきりと感じられた。
色々言いたいこともあるが、ビジュアルと音響の魅力の前には欠点はほとんどどうでも良くなってしまう。例えるなら「100点満点中、ストーリー60点、ビジュアルと音響それぞれ100万点」といった感じの映画。
SF的な世界や美術が好きな人ならかなり楽しめるであろう一作。原作を知らない人にもオススメできる。
今回は戦闘は控えめで2章のような激しさはなく、どちらかと言うとレビューのタイトル通り「クライマックスへの繋ぎ」といった感じの回。ラストへ向けた伏線や次章の戦いに続く展開、そしてwZEROの面々の日常で構成されており、次章を楽しむためには決して見逃せないエピソードであると思う。
1章で補給部隊に左遷されたアノウの嫌がらせから始まる日常エピソードは、wZERO部隊のキャラを掘り下げるのに役立っていたと思う。
2章でもwZEROの面々のプロフィールに関しては掘り下げられていたので決して今までが描写不足、ということはないのだが、正直2章から一年も経って各キャラの個性も半分忘れていたし、日常パートはありがたかったし面白かった。主要人物二名だけでなく、リョウ・ユキヤ・アヤノがより深く、魅力あるキャラに見えた。
特にレイラとアキト、この主要人物二人の過去が明かされたのは大きい進展ではないかと思うし、「何故シンはヒュウガ家を全滅させ戦乱を目論むのか?」という伏線にも繋がっている。
掘り下げられるのはwZERO側だけでなく、ユーロ・ブリタニア内部も怪しい動きを見せる。
やっぱりと言うか洗脳が不完全なジュリアス、シンに痛いところを突かれるスザク、そしてジュリアス排除を狙い、Eブリタニア全体に戦いを促しいよいよ動き始めるシン。次章に向けて大きく物語が動いた感がある。
「アキト」のキーパーソンの一人であるシンに秘められた謎や、唯一シンの刺客から逃れたファルネーゼ、何故か北海に異動(?)させられ、次回予告では新ナイトメアを与えられているアシュレイ、EU内部でクーデターを企てるスマイラス、そしてそんなスマイラスの前に現れた、ギアスとの関連を思わせる「時空の管理者」なる謎の存在と、新たな伏線もバッチリ引いている。
戦闘シーンはいつも通りのハイクオリティ。オレンジの技術力で動く3DCGのランスロットはまさに怪物!今回、戦闘シーンはランスロットvsミカエル騎士団の一戦だけだが、サザーランド相手に見せるスザク無双は見所。
そしてもう一つの見所は、物語前半の日常シーンで見られるレイラとアヤノのサービスシーン。パイスーにドレスと、露出度の高いカッコはキムタカの真骨頂!
特に中盤のダンスシーン、アヤノの乳揺れ描写にはスタッフのコダワリを感じた。あの服の内側で「ぷるんっ」と揺れるのを見て「スタッフはわかってるなぁ」と思った(スパロボよろしくばるんばるんオーバーに揺れるのもまぁ嫌いではないのだが)。
今回も安定の出来。大きく物語が動くであろう第4章が楽しみでならない。
大きく分けると、PVでも主に宣伝されていた飛空艇内部でのワイヴァン隊vsアシュレイの激戦を描く前半、そしてワイヴァン隊不在のヴァイスボルフ城に対する、シンが率いるEブリタニア騎士団の奇襲攻撃を描く後半で構成されている。
前回のラストで「箱舟を追撃する」というところで終わっているため、開始数分でスピーディに箱舟にワイヴァン隊が突入し、アシュレイらと激戦を繰り広げる。
箱舟内部の足場をキモい動きで飛び回り敵を撃破していくアレキサンダ、そしてそれに対するアフラマズダの戦闘シーンは、劇場の画質と音響も相まって見ているだけでテンションが高まる。ギアスの力で暴れに暴れまくるアキトを見ているだけで、劇場まで足を運んでよかったと思えるほどだった。
そして中盤~後半は「箱舟」追撃で手薄となったヴァイスボルフ城を奇襲するシンと、wZERO内部のドラマが描かれる。
ナイトメアとしては異例の馬の如き四足歩行で荒れ地を踏破し、障害を鮮やかに取り除いていくウェルキンゲトリクスのアクションも見どころだが、今まで裏方に徹してきたクラウスの掘り下げと活躍も面白かった。最近の作品には少ない「オッサンキャラならではのいぶし銀的格好良さ」は良かった。
レイラを捨て駒にしてEU掌握を試みるスマイラス、レイラの左目に宿る謎の「青いギアス」、幽閉されたルルとスザク、そしていよいよ語られるシンが戦乱を起こそうとする動機など終盤に向けての伏線もがっちり固められ、否が応にも最終章への期待が高まる。
終盤でのワイヴァン隊の帰還、兄の束縛を振り切るアキト、そして新曲「アルコ」と共に流れるエンディングもよかったと思う。
ただ、アッサリ寝返ってwZEROについたアシュレイには違和感があった。一応「勝手に捨て駒にされたのがムカつく(意訳)」という理由はあるのだが、あそこまでアキトを敵視してた奴がいきなり好感度マシマシで仲間になってしまうのには違和感がある。
また、「どうしてあの爆発からワイヴァン隊とアシュレイが生き残れたか」が全く描かれていないのも気になったが、これは多分最終章の序盤あたりで補完されるだろう(多分)。
後は第1章から思っていたことだが、やっぱりこの章でも寡黙なアキトのキャラと心情はわかりにくい為、ちょっと頭を巡らせる必要がある。過去の章のことを思い出さないと、序盤でのアキトの不殺行為の意味などがわかりにくい。
かくいう僕も序盤の不殺に関しては、初見では「いや、お前第一章でガンガン人殺してたじゃん、今更すぎない」と思ってしまった。
また、「スマイラスがレイラに市民の沈静化を頼む」→「レイラの演説で暴徒が沈静化&団結」→「スマイラスがレイラの死を偽装して市民の怒りを盛り上げるのに利用する」という流れは性急だったように思えた。いくらレイラが政治家であった父・ブライスガウの娘であるとはいえ、一回の演説でいきなりあんなカリスマ性を発揮してしまうのにも違和感を感じた。
正直モヤッとするところもあったが、本作も安定の面白さ。
残すは決着の最終章のみだが、そこで「亡国のアキト」に対する最終的な評価が決まりそうだ。
ファン待望の最終章だが、「よくわからない」というのが正直な所。今までの章も説明不足だったり展開が端折ってある部分がちょっとあってモヤモヤしていたのだが、今作でその「悪癖」が顕著に出てきたように思える。
尺の短さもあってか今まで以上に展開は速く、描写は抽象的で、さらに小難しいSF的解説も入るのでかなりややこしいことになっている。最終章なのに、綺麗にまとまっていない。
この問題を悪化させているのが、3章で登場した「時空の管理者」を筆頭とする「ギアス」関連の設定だ。3章ではスマイラスの関係者のように見えた彼女は、今作ではレイラの元へ現れ「意識の集合体」を自称、唐突に「ギアスの力は人間には重すぎる」「でもそうではないかもしれない。だからレイラが暴走したシン(≒ギアスの重さに耐え切れなかった者)を止められるか見て人類をどうするか考えるよ」と宣言する。
これが話をややこしくしている。最終章なのに、むしろ謎を増やしている。
意識の集合、という言葉は本家ギアスの「Cの世界」「神」を思わせるが、関連性は語られない。ギアスを人類に授けたと示唆する台詞があるが、これも明言はされない。何より何故レイラのもとにだけ現れたのか、本家ギアスでは何してたんだという疑問が生まれてしまった。
加えてギアスの力は本家ギアス以上のオカルトっぷりを発揮し、「ブレインレイドシステムの『共鳴』がアキトとシンを現実世界から物理的に消滅させ、精神世界らしき別空間に送り込む」「死者の意思を現実世界に表出させる」などやりたい放題だ。万能すぎて世界観から乖離していて、興ざめだった。
確かに本家でもギアスやCの世界関連の設定はやりたい放題な感じがあったが、それらはキーポイントの1つではあったが物語の本筋ではなく、物語の結末(ゼロ・レクイエム)に関わってくることはなかった。だが、本作ではそれらがガッツリ物語に絡んで、結末にも影響する存在感を持つ。それも、いきなり最終章で新設定がどんどん出てくる。
総じて「もうちょいシンプルに出来なかったもんか」というのが正直な感想。
そのくせ、細かい部分は説明を省いていて、わけのわからなさを加速させる。
作中の時間経過は具体的にどうなっているのか?
レイラの持っていた「ギアスの欠片」とは?
幼少期のアキトはどうしてシンのギアスを実行できなかったのか?
シンにギアスを授けたのは何者なのか?
アシュレイの専用アレクサンダはどこから出てきた?
スマイラスは結局時空の管理者をどのように「謀った」のか?
これらの一部は設定で語られているらしいが、疑問は残る。何より、こういうことこそ本編で語れよ、と思ってしまう。謎の精神世界ワープをランドルにメチャクチャな理論で解説させることが、本当に大事なことだったのか?
戦闘シーンは相変わらず素晴らしいが、4年の間に地上波アニメのCG技術も進歩したせいで見慣れてしまったのか、驚きは薄れてしまった。2章の市街戦、3章のランスロット無双、4章の「方舟」での三次元的な戦闘と比較すると、どうもインパクトが弱い。
結論すると、「全5章の有終の美を飾れた」とは言い難いと思う。つまらなかったわけではない。戦闘シーンだけでなく、面白いと思える所、面白くなりそうだと感じたところはたくさんあったし、色々言ったが最終章もグッと来る場面はあった。
だが、それ以上に粗と説明不足が目立ってしまい、物語にのめり込めなかった。最終章だというのに、疑問ばかりが頭に残ってしまい、すっきりしなかった。
感想を一文でまとめるとすれば「映画という媒体に『翻訳』された虐殺器官」。原作から大小の要素をオミットし、原作の核であったクラヴィスとジョン、ルツィアの物語に焦点を絞ることで、見事、約2時間の尺に難解な物語をシェイプアップしている。
情報量削減の結果として話もかなりわかりやすくなっており、大筋のわかりやすさは間違いなく原作より上。昨今のアニメ映画と比較すると難解な言い回しやセリフ(特にジョン・ポール)は多いが、それでも最終的にはジョンが何のために虐殺を扇動したのか、そこにどんな心情があったのか、という「オチ」は理解できるようになっている。
情報量の減らし方がProject-Itohの前作「ハーモニー」と比較すると巧みで、「説明的」な感じが軽減されているのもグッド。ハーモニーと違い後述するSF的な戦闘シーンもあるので、退屈さはあまり感じなかった。
見るべきは見事に映像化された作中のSFガジェットだろう。
侵入鞘、フライング・シーウィード、痛覚マスキング、オルタナなどのビジュアルはほぼ原作読者のイメージ通りと言ってよく、見た目にも面白い。
特にインドでのジョン・ポール確保作戦のくだりは最大の見所。シーウィードからの侵入鞘での降下、侵入鞘の銃撃、落着後、機銃をドローンとして切り離し速やかに腐食し始める鞘、ファーストパーソン・シューティングのような主観視点での少年兵との戦い、そして痛覚マスキングと感情調整の効果を端的に示すリーランドの死に様など、「原作のビジュアルの再現度」という点では1ミリの文句もない。
しかし、原作の読者からすると「情報力の削減」がマイナスに働いている部分も多いと感じた。
その最たる例が主人公のクラヴィス。クラヴィスは原作だと「両親を失い、しかも脳死状態の母親の生命維持装置は自分で切った」など重いバックグラウンドがあり、自身もそれに関して罪の意識を感じているほか、そのトラウマをきっかけに「死者の国」のイメージが脳にこびりついている、という設定がある。だが、映画版ではそれらがすべてなかったことにされており、ただの「いち軍人」的なキャラクターになっている。
ルツィアに関しても「クラヴィスが罪悪感に対する『赦し』をルツィアに求めていた」という描写がカットされているほか、好意を抱く過程もやや性急な感がある。
クラヴィス関連の設定の簡略化もそうだが、やはり原作読者としての最大の不満は、原作ラストでクラヴィスが行ったことをあくまで「示唆」にとどめ、明確に描かなかったこと。一応、原作の知識があり、かつ描写を見れば「恐らくクラヴィスは原作と同じことをしたのだろう」と想像はつくのだが、あるとないとでは大違いだ。
「屍者の帝国」のように、「ああ、スタッフロールの後であのシーンが挿入されるんだろうな…」と身構えていただけに、かなり肩透かし。
総評すると、原作読者的に文句がないと言えば嘘になるが、情報量の多い原作を破綻なく映像化したことに関しては素直に素晴らしいと思う。原作に、ひいては伊藤計劃の作品群にご新規さんを呼び込むにはぴったりだろう。
ハリウッドで実写化も決まっているらしいので、そちらにも期待。