サービス開始日: 2018-02-12 (2474日目)
“世界への殺意”をハラに抱える長閑な島。
偶々やって来た異分子が化けの皮を剥がし、偽りに終止符を打つ流れは寓話的で面白いなと。
自分の過去と“世界への殺意”を文字通り昇華した格好になったドアン。
まぁ、子供達にあれだけ崇拝されてしまったら、ねぇ。ただ、テレビ放映版の少女は、ドアンの罪も後悔も見据えて尚且つ寄り添い頼る達観みたいなのを感じたけど、今作は健気な年長役にとどまった感じが勿体無い気が。仕方ないのかもしれんけど。
ブライトさん、上層部にそれとなく小細工して抵抗して見せたりして、それじゃ手腕認められても昇進難しいし将来疎ましがられて閑職やら名ばかりの雑用係に回されても仕方ないっすねなどと思ったりした。
何度も繰り返される「下から上へ、上から下へ」のパターン。人生の浮き沈みが波と重なる。
躓いたとき、倒れそうなとき、手を差し伸べ助け合うのは生きている者同士。死者は見守り励ますだけ。全て凝縮されたクライマックスでの大瀑布の滑走は、なかなかのカタルシスだった。
死別の苦悩のお話は、美しい思い出とクライマックスの別離、直後のセンチメンタルな描写、と成りがちで、だから死別後の依存と立ち直りまで描いた部分は興味深かった。コメディタッチじゃなかったら死別後のあの行動は深刻すぎてちょっとヤバいwアニメだからこそ出来た描写かもしれない。
「別れの思い出は振り返ってみると美しい」とか言うけど、死別はやはり心の傷で、その傷を只の傷で終わらせない為の生者の苦闘がその思い出を美しくしたのではないかしらと思う。身近な人を送った経験がある人は余計刺さるお話だろうな。
原作未読。四畳半神話大系も残念ながら知らない。
“パンツ総番長”の言葉の響きの強さに初っ端から打ちのめされた。
乙女の巻き起こす「ご縁」の嵐と、先輩が必死で手繰り寄せる「偶々」の努力、そしてアニメならではのめくるめく表現世界。面白かった。
空虚にも思える“外堀埋め”の楽しさについてふと触れられているのがなんだか共感できて楽しかったし、押し入れに仕舞い込んだ「才能」の正体はなんだか胸にツンと刺さった。
堂々巡りを突き破るのはヒャッホーの進む力で、恋をしたら孤独になるんだね。
四畳半神話大系も見る機会をいつかつくりたい。
そして花澤香菜さんの声と演技、とっても好きだなぁ…と改めて思った。
二度目の視聴。
一度目はハルカが主人公だと捉えていたけれど、ユウ、カラスが主役だったのだなと考えを改めた。
良くも悪くも“龍のトルク”はブレない。このお話で成長し変化するのはユウとカラスなのだよね。
過去を許すことのできないカラスと、未来の選択を怖れるユウ。話が進むにつれそれぞれの立場、関係が変化し入れ替わっていく様子はやっぱり面白い。
カラスの“力無い弱い過去”にイラつく気持ちもわかるし、ユウの“未来に対する漠然とした不安”みたいなものも進路を決める時期ありがちなことの様に思う。
そこからカラスがユウを認め、ユウは未来を選び取りカラスに代わってハルカを守り抜く気概が持てるまでに成長していく。その流れが巧妙に描かれているなと思う。
それから、これは最初に視聴した時に驚き、感嘆した部分だけれども、対応する話を立場や状況や人を変えて繰り返し描いてみせる造りがとても印象的で、例えばカラスとノエインを入れ替えて彼らの関係を暗示する1話と16話、立場が逆転しつつあるカラスとユウを入れ替えてラクリマにハルカと行く6・7話と20話、過去に囚われた大人は過去へ、子供は絶望の未来へ行く9話と22話。
他にも細かく見れば沢山あるんだろうな。この仕掛けのお陰で、カラスとユウ、未来と過去、を否応無しに対称として意識するし、過去を受け入れる困難さと必要性、未来を選択する勇気と尊さを感じられる仕組みなんだろう。…そしてそれらを成し得なかったノエインの矮小さが伝わるんだろう。
前を見通すことのできない霧の中で、ハルカが仲立ちするようにカラスとユウの手を取って歩くシーン。まさにこれが我々凡人の歩む人生の縮図のようなものに感じて何やら感慨深かった。
二度目も面白かった。そしてやっぱりフクロウはいい奴だった。
登場人物にとって現状がやるせなく、いかんともしがたい時、風景描写は冴え渡り胸を打つほどの美しさをこの監督は描くのだな。
練りに練った手紙よりも、たった一度の口づけで通い会う想いが存在するし、忘れられない恋慕が生まれると残酷なことを告げてくる。
いつまでも夢想の中に浸ることもできず、ロマンは薄汚れて理想も擦りきれて現実を選びとることになるのが大人ってことなのか、幸せって事なのか、何が正解なのか私にもわからないけど、誰にとっても『瑞々しい若い日の夢想と憧れ』は苦くて美しいモノなのだと思う。届かなければ届かない程に。
ロケットが遥か彼方にうち上がる様子を言葉もなく見守り、相手の心が届きようもない所を指している事を悟ってしまうあの美しいシーンは私もしんみり寂しくて、何かを抱くようにして眠る姿もまた美しく、悲しくなって泣いた。
こんな視座で物語を描いた監督が、どんな過程を経て「君の名は」のラストにまで辿り着いたのか、少し興味がある。
雨の描写が本当に“微に入り細を穿つ”とはこの事かと。洗われた空気と森の芳りを感じるほど。
ほんの少し、レールを外れたり、外れざるを得なかった二人が、都市の喧騒から離れた東屋のシェルターで羽を休める…と言うと幻想的でカッコいい。
だけど“普通に生活送っている人”から見ればキモい逢瀬でしか無い。
“普通の人”である高雄の兄の、高雄の母親の逃避に対する視線がとても辛辣で、でもそれは世間一般の人が高雄と雪野の逢瀬に向ける視線、と言うのはとても良く出来た二重写しだなと感じる。
それでも、だからこそ、あのささやかな憩いが美しく鮮やかなんだろう。
甘いけれど溺れすぎず、儚い夢のよう。
結局、二人はキチンとレールに戻り、電車に乗ってその先へと歩いていく。
高雄の母親も家に戻る。
一瞬の逸脱の夢想として、それに似合う美術と技量でまとまって面白かった。
よかった。
ネットでの評価が余りに低かったのでどんなもんかと思っていたけど、私の心には響いた。
大傑作だった!と言うつもりは無いけど、叩かれ過ぎではなかろか。
4歳の主人公くんちゃんが、夢か現か白昼夢にも思える世界に度々紛れ込んでは、“小さな大冒険”をするお話。
古来の風習に未だ囚われつつも、新しい価値観の創出を必要としている現代で、ファミリー・ツリーからの豊かな恩恵を受けている事を自覚し、且つ新しい家族の在り方の模索を試みる。そんなメッセージを感じた。
ひいジィジとの交流。自分の立ち位置、氏素性の自覚。妹との繋がりの確認。
その結果が自転車に乗る事へのチャレンジであったり、青いズボンを受け入れる事であったり、元気にお返事できるようになる成長に過ぎないけれど、その小さな体の内面でどんな嵐が吹き荒れ葛藤と目覚めがあるのか。少し覗かせてもらったそんな感じだった。
くんちゃんのキャラクターとしてのリアリティや好感度が取り沙汰されているようだけれども、いいも悪いもあんなもんだと思う。幼児って底抜けにお馬鹿さんかと思うと、ある時急に、束の間賢者が憑依する事もあるし。
大体、5歳位から記憶が朧げに残るようになるんだから(勿論そうじゃない人も居るだろうけど)、白昼夢に遊ぶ年齢として絶妙と思う。
蛇足
「この子の中のどこに“良心”を見出せばいいの?」と感じてしまう程の悪魔みたいな子供も存在するし、あのイヤイヤ期は不自然じゃないと思う。
兄弟をつねったり叩いたり突き飛ばしたりなんて、共感の心が芽生えていないウチは残念だけどあるよ。成長すると嘘みたいに立派な振る舞いをするようになる子供が大半だよ。(勿論、そうじゃない場合もある) (そして、自分の子供がそうだったと言う訳でもない)
評判になっていたのは知っていたのだけれど、今になってちょうど有料放送で観る機会があったので観た。
レビューにもなっていない只の感想ですが…。
ネットに上げられていた感想がなにやら歯切れが悪い物が多かった事に納得。
話の流れが登場人物達に容赦が無さすぎて居たたまれなくなる。心が揺さぶられることに間違いは無いのだけれど、モヤモヤが残る。
強い罪悪感とトコトン下がった自己評価を持つ因縁のある二人が不器用に寄り添おうとするお話。
主役二人のそれぞれの家庭の要なのが"祖母"の役割を持つ包容力がある女性。がしかし、片方の"祖母"に当たる人の喪失でその家庭のバランスが大きく崩れて死に傾いていく様子が歯痒かった。結弦ちゃん頑張ったのにね…。
そして、大概の人が、何れかの登場人物の立場になったことがあるであろうし(下手すると複数)、誰一人、曇りなく潔白な人物はおらず、見ている側も非難批判されている気分になるのではなかろうかと思う。重い…。
生きると言うのは、しんどい道のりで、共に歩いてくれる誰かがいると言うことだけで本当に素晴らしいよね…と自分自身の事を振り返って思った。
だがしかし。お話冒頭の担任教師、お前は許さん。あいつはダメだ。
チセの右フックがキマッた回
一番印象的だったのは、朦朧としたチセが出会うネヴィンのセリフ
「君を導いているのは君自身」
ネヴィンとの出会いが確実に彼女の糧になっているのがよくわかる。
お話の流れとして、“自己犠牲”に高い価値を置いているのは分かるし、エリアスの選択がチセの信頼を裏切ってしまったというのも解るのだけれど。
私はエリアスの選択を醜いものだとして切り捨てることができない。
チセが前回に言っていたように「やれたからやった」のと同じようにエリアスも「出来るからやりたい」と考えてしまったのだろう。長い生の中で初めて出会えたと思えるかけがえのないものを失う恐怖から“悪魔の誘惑”に乗ったのだなぁ。
そして一度喪失を経験したルツもまた同じ。
かつては「その男死にかけてるじゃん。なんでかって?そりゃ、お前が傍にいるからでしょ」と言い放ったエリアスが、チセの死の影に怯え、チセを裏切ったことを詫び、嫉妬し。人間臭くなってきたな…。
チセから見れば、魔女の頭領の「自己犠牲による死」は眩しく尊い物に見えるだろう。
でもそれを見守っている事しか出来ない側の苦しみはどうなるのか。
自己犠牲こそが人間を人間足らしめる行動だ、と言うのがこのお話のメッセージのひとつなのではあろうけれども、それもまたひとつの傲慢かつ思い上がりだよな…と胸が苦しくなった。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン 8話、観た。
過去へと遡る回だった。
少佐との交流の始まりは狼少女ジェーンさながら。
軍の中ではセンシティブ過ぎて偽善者呼ばわりされてしまう少佐と、兵士としてしか役に立てない少女。
思い出を遡るにつれ、現実世界の彼女の周りはどんどん色を無くしていくのに、少佐との思い出は鮮やかな彩り。
遂には小川(境界線)を越えて色褪せた思い出の館へ。認めなければならない所まで。
1話の少佐の苦悶の表情の意味をやっとうかがい知ることができた。
只、少佐は実はヴァイオレットの瞳の色こそ美しいと思っていたのではないのか。戦う彼女の瞳を美しいと一瞬でも思っちゃったのではないか。だから「(美しいものが欲しいなら)君の瞳の色でなくていいのか」訊いたのではないか。
感謝の品を送りつつ、感謝されて泣きそうな顔の少佐。お互いがお互いの瞳を覗き込んで「相手の瞳こそが美しい」と思っていたのではないかと。
8話を見て、今度は1話をもう一度観てみた。
回想から目覚めた彼女は、まるで白い棺の中に収められた、瞳が美しい真っ白なお人形のように見えた。 今となればその時の彼女が「愛してる」の言葉を抱き締めているのが解る。
目が覚める様な感動があった。
グランクレスト戦記 7、8、9話。感想、まとめ。
テオとシルーカ、アレクシスとマリーネ。どちらも理想を夢見てそれに寄り添った男女のカップル。未だ夢みる白い公子アレクシス。
ヴィダールもまた"正しさ"を盾に汚れようとせず潔白なままでいようとする。
それに対して苛烈な決意で力を以て平定を目指すマリーネ。アウベストも堅固な意志で付き従う。
瘴気を発生させたとき流した涙と血はそのままマリーネの流した涙と破瓜の血と対なのではないのか。
しかし、強い力を受け入れた、と受け止めるのか、黒い物に汚された、と感じてしまうのか。彼女がこれから揺れてしまう場面もありそうで残酷だと感じた。
更に、"漆黒の公女"タイトルバックは彼女がアレクシスと初めて出会った橋の石。アレクシスが美しいと見とれていた物だ。なんて残酷。
みんなアレクシスが悪い…。多分。
みーくんはとてもかわいい。だけではなくて。
不思議な生き物が4体出揃った様なので気になる点をメモしてまとめてみる。
・不思議な生き物について
はじめの頃は一律に"シャドウ"の様なものかと思っていたのだけれど、そこまで限定的な物でもないようだ。
自分を客観視できる鏡像だったり、足りない部分を充足して癒してくれるものだったり。社会生活を補助してくれる類いの物も現れた。
次回は人と共生するのではない自立した物まで現れる様子。
人の目から隠れているのは本当に"騒がれたくないから"と言うだけなのかな。条件を満たした人間の前にのみ"姿が見える形で"現れるのではないかな。そこまで掘り下げてやってくれるのかは定かで無いけど。
・大人の影が無い…
出てこない。ほぼ。
辛うじてカエデさんが大人と言える年令のようだけれど、人格的にとても不安定な存在だ。
存在していても遠くにいるとか、兄妹だけとか、助けてほしいときに側にいないとか。挙げ句に距離をとってしまうとか。
頼れる大人がいない世界で、まだ一人立ちするには若い彼等が不思議な生き物と一緒に寄り添いあって健気に生きてる切ない世界だ。
逆に、カエデさんホントに人間なのか。実は不思議な生き物が人間のふりしてるだけと言われても驚かない気がする。
この事は意味があるのか。それとも単に大人がいると、子供だけで話を進めて行くのに邪魔だから敢えて隠しているのか。
毎週、結構楽しみにしている。