メモ
Date:2024/11/14
ボロ泣き。
原作未読
漫画がそのまま動いてしゃべって音楽がついているなという感覚。
「アニメ化」ってこうあってほしい、の原作ファンが思うひとつの形のように思う。
前半ちょっと入り込めなかったものの、ストーリーが展開する中盤からはもう釘付け。
伏線からの救済措置が予測できなくて驚いた。
エンドロールが聖歌だったのも世界観が表れててよかったなぁ。
メディアミックスはこうあるべき。
原作既読。とても良かった
セリフではなく描写で伝える作品だった。
セリフに頼らないが故にキャラクターの感情がダイレクトに伝わるように感じた。
56分とは思えないほど濃い映画だった。
本作は言葉で全てを表現していないが故に感想も言葉で全てを表現できないような気がする…
元が読み切り作品である為か、藤野と京本の交流をメインに物語は展開されている。また、2人は漫画制作に挑むものの、その内容がどのようなものであるかは明示されないし、制作においてどのような壁が有ったかもテーマとならない
そこに在るのは2人がひたすらに絵を描き続けたという事実だけ
なら2人はどうして描き続けたのかと言えば、それこそ2人が出逢ってしまったからとしか言い様がないように思える
当初の藤野は目立てる、他より優位であると示せるから描いていたように思う。それが京本というもう一人の描き手に出会う事で彼女の描く理由は変質した。相手の領域に追い付きたい追い付きたいと執念で描き始めた
けれど当初の京本は藤野への返答となる絵を描けないから、藤野は立ち止まってしまう。2人は互いの絵に出逢った事で描き続けられたのに相手と絵を交わせない状態では続けられない
更なる変質が起きるのは本当の意味で出逢い関わるようになってから
藤野は京本の憧れを体現する為に、京本は藤野の背に追いつく為に。2人は一緒に描き始めた事で最高の歩み出しが出来た
でも、道が分かたれてしまうのは結局の処、2人が1人と1人でしか無いという事実から抜け出せなかったかもしれない
藤野は憧れを体現する為に。京本は追いつく為に。その手法は異なっていた。あれだけの時間を一緒に過ごしていたのに互いは別の描き手であるという事実に気付かなかった
ただ、それは本来悪い事では無かった筈なんだよね。道が分かれたっていずれ合流すれば良い。成長した2人としてまた一緒に描き始めれば良い。
それを許してくれない理不尽があまりに哀し過ぎるから出逢った事すら間違いだったと、感情が許容できないだけで
藤野の後悔から描かれるIFの時間軸は残酷でありながら都合が良い代物
藤野が誘わなくても京本は美大に進み襲撃の現場に行き着いてしまうし、京本が襲われる場面で都合良く藤野がキックをかますなんて無理が過ぎる
けれど、そんな有り得ないIFで示されるのは2人が2人として描き手の道へ進むきっかけ。そこから判る、藤野と京本はどうなろうと描く道から外れられやしない
それは最早呪いかのよう
ならば究極的には京本の死が藤野を止める理由には成らないかもしれなくて
確かに藤野は京本の死によって休載し膝を抱え込んでしまった。けれど「出てくんな」と言われても京本が藤野の背を追いかけたように、京本が藤野に憧れて描いていたなら藤野も描き手で在り続けなければ
あのどてらは京本にとっては1人になっても描き続ける原動力だった筈。図らずも藤野にとってもそれは同様となった
それは呪いと祝福を同時に体現する、描き手にとって何よりも厄介な代物
藤野は漫画なんて描くもんじゃないと云う点に言及している。それでも描く理由を彼女は明言していないけれど、本質的に描き手はその答えを持ち合わせていないのかもしれない
描きたいから描くのではなく、描かなければ呪われてしまうから描き続ける。そういう呪いの下に生きている
藤野は1人になってしまった。けれど、京本がどのような背中を追い掛けて描き続けていたかを知ってしまった彼女はもう描くのを辞めるなんて出来やしないのだろうね
ストーリー面だけでなく描画方面についても感想を述べるなら、鮮烈な印象を残したのは藤野が京本から憧れを明かされた後の帰り道の様子かな
話している最中は京本の憧れにまるで興味がないかのような素振りだったのに、帰る道すがらに少しずつ躍動感が増えていき、雨を蹴っ飛ばすようにスキップを踏み始める彼女の表現には感動に近いものを抱いてしまったよ
読み切りが受賞した時よりも連載が決まった時よりも過剰に示された感情表現からは京本に褒められた事が藤野にとって描き続けた行為が何よりも報われた瞬間だったのかもね
スタッフロールも印象的だった
映画のスタッフロールは監督等の主要スタッフの後にキャスト欄が来る作品が多い認識があるのだけど、本作では作画に係るスタッフを残らず出してから他のスタッフ一覧を表示していた
それは本作が変えてはならない原点として掲げる、描き手への尊崇の念の表れであるように思えたよ
あと、この感想文は本作のサントラを聞きながら書いていたのだけど、聞いているだけで映画の各シーンを思い出して物哀しい気持ちになってしまった…
本作の音楽って素朴さを強く感じるのだけど、それだけではない孤独や強さや衝動などの印象を覚える…
これは青春の物語だ。二人で漫画を描きまくった日々、あの燃えるような青春の。
if世界でも結局一緒に漫画を描くじゃないかと思うかもしれない、だが再会の場面の熱量の対比を見よ。大学生で出会った二人が背中にサインを貰い、雪の中のコンビニで当落を見て、寝ても覚めても漫画を描き続ける、あの日々が過ごせるだろうか。
だからあの青春はここにしかない。京本が死んだこの世界、藤野が漫画を描き続けたこの世界にしか。
未来ではなくその過去にこそ、藤本が漫画を描き続ける理由がある。だから『ルックバック』なのだ。
天才と凡人だとか作者と読者だとか二人を対比させる論をいくつか見たが、個人的には全くそういう構図には見えなかった。
重要なのは藤本がステップアップの構想を語る場面で、これはそこまでのイキり勝ちな言動からすると「見栄を張ってしまいました」となりそうに思える。しかし実際はスムーズに進行し(一年掛かりとはいえ)受賞にまで至る。藤本は間違いなく話を作る面において天才であり、二人は全く対等なクリエイターと見て良いように思う。
冒頭の4コマ漫画の映像化から映像に圧倒される
貧乏ゆすり、消しゴムをかけたりするしぐさや表情が細かくて、セリフに頼らず映像の力を信頼している作品
細やかなだけではなくて京本と出会った後の帰り道など派手な動きも丁寧で感動する
藤野と京本の声の芝居も非常に良い、すごい
積み重なる時間の表現がクソ巧く、一時間の濃さがすごい
映画館で見たので正直線の良し悪しはわからなかった、このへんは家で止めながら見たほうが良かったかもなあ
静寂も大事にしている作品だからこそ、周囲の人間の気配が気になって映画館で見ないほうがよかった
2024/07/04
暫定今年1位
情感たっぷりで儚く美しい作品でした。
BESTIA上映で鑑賞。すごく良かった。
あっという間の58分だったけど,濃密すぎて2時間ものを観たあとの充実感があった。
見終わったあとに「京本ぉぉぉぉぉ!!!!!」って叫びたくなった。
藤野が京本に,美大進学せずに私といっしょに続けようよという場面,人間の自分勝手でイヤな面を見せられた。
でもあのシーンがあるから,最後の藤野の涙が沁みる。
あと劇伴が素晴しい。いかにも映画を観てるって感じがする音楽の使い方。
観る前はBESTIA上映のメリットはあるかな?と不安だったが,BESTIAで正解。
入場者特典の Original Storyboard を手に入れられて良かった。いいものを入手した。
原作既読。原作発表当時、圧倒された人間なので、映画化と聞いたとき正直不安だった。でも2月に発表された30秒のムービーを観たときに思った。
ああ、漫画のコマとコマの合間にあったであろう何かを記述している、と。
貧乏ゆすり、息づかい、消しゴムで消すときの思い、鏡に映る顔。
観に行こう、と思った。
映画が封切られて、少し仕事が落ち着いてから見に行こうかなと思ったけど、特典に藤本タツキ先生のネームがつくと聞いて原作ファンとしては万難を排して観に行かざるをえなくなったw
凄かった。原作をほぼ忠実になぞりつつ映像でしかできない表現やカットがさりげなく追加されている。原作ファンって普通映像化に何か言いたくなるものだけど、もうこれは褒め言葉しか出ない。
冒頭は小4の藤野が漫画を描いてるシーンから始まる。原作になかったけどすごいと思った(漫画でこれをやると多分ツカミが弱くなるので映画だからこそできるやつだ)。背中がすべてを語っている。貧乏揺すり、描いては消し、構図を思い悩むことでさえ楽しい時間。思いついてペンを走らせる瞬間。このシーンがあるからこそ「5分で描いた」が嘘であることがわかるし、藤野が「嫌なヤツ」じゃなくなる。
動きがすごい。自分はアニメは疎いので押山監督のお名前も知らなかった。そんな素人でもこれが神作画であることはわかる。しかも全カット、全コマ。3DCGのモーションキャプチャベースでは出し得ない、アニメーションの緩急の快楽みたいなのを感じた。コマを並べてその間にあるものを想像させるのが漫画だとすれば、それを仮現運動で補完するのがアニメーションの本質だ。京本の漫画を見たときの藤野の表情の変化、藤野が初めて笑顔になった瞬間、雨に踊る藤野の足取り、美大に行くという京本に藤野が一瞬なにかを言いかけてやめるカット…(あのシーンは、逆光であおる構図とか木を挟んで二人が分断された構図とか、原作にないカットがいくつかあってそれが本当に素晴らしかった)。そういう何か一瞬の逡巡を捉えたカットがあちこちに散りばめられている。そこに涙が出そうな美しい背景美術と音楽が加わったらもう最強でしかない。
実写でも3DCGでもなくひたすら手書きで作り上げられたこの映画は、それ自体がこの作品のテーマのメタな具現化であって、「絵を描くこと」への執念を強く感じさせる。
* * *
『ルックバック』というタイトルには7重くらいの意味が込められてるように思う。
1:まず単純に、昔を振り返る、ということ。だからこの映画の基点は売れっ子漫画家になった藤野キョウなのだ。
2:『背中を見て』という京本の4コマのタイトル。作中作のタイトルが実は同じだっていう構造。「藤野先生、背中に凶器刺さっとるやないかーい!背中見ろー!」という、「志村、後ろ後ろー!」的な渾身のギャグだ。
3:『背中を見て』は藤野へのツッコミであると同時に、「ずっと藤野先生の背中を見てきました」という京本のファンレターでもある。あの世界線の京本は藤野と出会わなかったけど、藤野の漫画を全部スクラップ帳に貼るくらいのファンだった。ピンチの時に推し作家が急に現れて、シャークキックばりのキックで命を救ってくれたらそりゃあんな4コマも描きたくなるってものだ。「京本も私の背中みて成長するんだなー」京本は本当に大きく成長した。
4:藤野もまた京本の「背中を見」つづけてきた。見知らぬ京本の画力に打ちのめされ嫉妬しながら、彼女の背中を追い続けた。あれほどの猛勉強を彼女にさせるほどの、強烈な憧れを藤野は京本に持っていた。その推し絵師から「ファンです!サインください!天才です!」なんて言われたらそりゃ雨の中で小躍りもするってものだ。
5:どてらの「背中を見」ると、そこにはサインが書いてある。藤野と京本の原点であり、京本の部屋で喪服の藤野が「振り返っ」たときに目に入る印象的なシーンだ。
6:観客や読者もまた、ひたすら「背中を見る」。映画は漫画を描く藤野の背中で始まり、終わる。映画の1/10くらいは彼女の背中なんじゃないだろうかw 決して正面や横から写さない。ただ背中だけが描かれる(だから彼女の椅子には絶対に背もたれがない)。こうやって僕らも彼女の背中を、あるいは誰かの背中を見て、それに突き動かされて生きていくんだと思う。
7:作中での、(観客にとっての)一種の時間遡行の仕掛け。
あと原作で明確に示されていた「Don’t Look Back in Anger」への言及を入れると8つか。
* * *
藤野は京本の画力に打ちのめされ、挫折感を味わう。でも、たぶん本人は気づいてないけど彼女のギャグセンスとプロットは天才的に巧い。『奇策士ミカ』とか、小学生でこれはヤバい。そんな類い稀な能力をもつのに、他人の画力に嫉妬するのだ。そこから必死に絵の勉強をして画力がめきめき上がっていく描写が本当に好きだ。小6で描いた『真実』はギャグセンスと画力どちらもとんでもないことになっている。何かに突き動かされてひたすら粛々と努力して限界を超えていくような作品が、自分は大好きなのだ。自分にできないから強烈に憧れがあるんだと思う。それでもスケッチブックの数は京本にはかなわない。SNSで可視化された「上には上がいる」という絶望。
* * *
この作品で自分が好きな部分は、そういう創作賛歌もあるのだけど、さらにあと2つある。虚構が現実を救うということ。そしてそれをさらにメタなレイヤーで止揚している構造。原作でやはり明確に参照されていた、タランティーノの映画『Once Upon A Time in Hollywood』に対する鮮やかな返歌だ。
『ルックバック』原作が公開されたのは、7月19日だった。7月18日に起こった出来事を、自分はまだ心の中でうまく受け止めることができていない。以下、無神経なことを書いてしまっているかもしれない。申し訳ない。発表当時広く言われていたように、タランティーノもタツキ先生も、根っこにはかなり近いモチベーションがあるのではないかと思う。ハロワの武井Pの言葉を借りれば「フィクションによる救済」だ。ふたつのフィクションがぶつかった挙げ句の「映画(漫画)の勝利」であり、「負けない」というクリエイターの意思表示だ。
だけど『ルックバック』はさらにそこに一ひねり入れてくる。幸せな世界線から観客(読者)は現実に戻ってくる。でもドアの隙間をくぐり抜けた4コマが2つの世界をつないでいる。
自分はこういう「2つの隔絶された世界がほんの一瞬接続する(ように見える。でも本当のところはわからないし、当事者自身も気づかない)」という物語構造が本当に大好きなのだ。京本を外に連れ出した藤野の悔恨が詰まった「出ないで!」という切れ端が、京本を部屋に押しとどめる。そして逆に京本の一種のファンレターでもある4コマが、藤野の元に戻る。美しすぎる円環構造だ。
あの構造に『インターステラー』とか『あなたの人生の物語』(映画『メッセージ』)みたいなSF的構造を読み取る人も多いし、重度の映画フリークであるタツキ先生は当然これらを参照はしているだろう。ただ自分としては、ただ現実と虚構の枠組みでこれを受け止めたい。あの文字通りの「最高のハピエンif」は実在する別の世界線なのか? それはわからない。ただ、僕らから見れば藤野の「現実」でさえ、映画であり漫画であり虚構なのだ。だからif世界線も僕ら外側の人間にとっては「同程度に」虚構でしかない。裏を返せばきっと「同程度に真実」なのだ。京本がいない世界線といる世界線には何ら優劣はない。それが虚構の力だ。
藤野が突然現れて犯人をキックするあの場面は、(空手の伏線も見事だけど)明確にシャークキックの具現化であり、「フィクションのいいとこ全部乗せ」である。あのシーン、映画なのに唐突に漫画のような「コマ割り」がされてた気がする(気のせいかも)。つまり明確に「これは漫画なんです」「ほら、京本を救えるんです。漫画ならね!」みたいな意志を感じるのだ。
if世界線の京本から「ファンでした(過去形だ。藤野ちゃんに頼らないで夢に踏み出した京本の成長を感じる)」と言われたとき、藤野は彼女が京本だとまだ気づいていない。ただの美大生としか思っていない。でも「なんで漫画描くのやめちゃったんですか!?」のあと、藤野にフォーカスが移ってから、映画では明確に少し間がある。ここで確実に彼女は「やめたきっかけ=京本」を思い出しているはずだ。まさか目の前にいるのが本人とは思ってないだろうけど。そして、彼女の称賛は再び藤野の心に火をつけたのかもしれない。「最近また描き始めたよ!」は実はフェイクで、この瞬間に彼女は漫画を再開を決意したのかもしれないなとも思う。現実の構図がそうだったからだ。卒業式の日、どうして小6の途中で漫画をやめたのかを訊かれて、「漫画の賞に出す」「ステップアップするためにやめた」とその場で出任せを言いつつ、再び漫画を描きはじめたからだ。
「if世界線は、藤野があの一瞬で考えた想像なのだ」という解釈を読んだこともあって(たとえば https://note.com/_6161/n/nbeb703fdb30d )、これはこれで好きな解釈だ。この解釈では京本の漫画『背中を見て』の文字がどう見ても藤野の筆跡だったことから、この漫画自体が藤野の想像であると結論づけている。でも、今回見た映画では、「背中を見て」タイトルは藤野ではなく京本の書き文字のように見えた(一瞬だったので気のせいかもだけど)。だとすると少なくともあの漫画は京本が確かに描いて、藤野に確かに届いた、ということなのかもしれない。
本当に隔絶された世界の壁を超えて、ひとつの4コマが物理的に届いたのか。それとも「現実」の京本がたまたま描いて窓に貼っていたファンレター的な1枚が、たまたま風に吹かれてドアをくぐり抜けた、それだけのことなのか(窓に貼られた4コマの配置には、不自然な隙間がある)。どちらであってもそれは一種の救いになりうると思う。前者であればそんな奇跡こそ、僕らがフィクションに求めるものなのだ。そして後者だとしたら、京本が藤野と別れてからもずっと藤野先生を慕い続け、画風やギャグセンスまで完全に真似してあの作品を描いた証左があの4コマであり、それを見た藤野の脳内にあのハピエンif世界線が一瞬で構築されたのだとすれば、それこそが人のもつ想像力・創造力の発露だからだ。それは決して逃げでも現実逃避でもない。どちらであっても、それは藤野が京本のいない現実を生きていくための支えになる。
* * *
今回、特典のネームを読んで、プロットもカット割りも完成版の漫画とほぼ同一であること、ただ登場人物の名前だけが違っていることに驚いた。藤野と京本——明らかに二人とも藤本タツキの分身であり、また「京」の文字をあてたことにも覚悟を感じる。
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さて、ここで恒例の自分語りなので適当にスルーしてほしい。この映画は、すごく共感性羞恥だとか自分のモチベだとかそういうものを再確認する作品でもあった。自分は藤野と京本の悪い所だけをくっつけたような人間だった。小4のとき、友達がノートにギャグ4コマを描いて周囲に見せていた。「自分ならもっと面白いものが描ける」そう思った自分は、ノートにギャグ4コマを十数本くらい描いて周りに見せた。ただの棒人間みたいな漫画で、別に藤野みたいに絶賛されたりもしてないけど、自分のほうが面白いという暗い情念みたいなものはあった(さっき黒歴史が詰まった段ボール見たらペン入れした原稿出てきて速攻しまった)。中学でも友達のアニメキャラのイラストを見てやっぱり「自分はもっとうまく描ける」と根拠なく思った。ちなみに今思うと自分はどう考えても平均以下で、その友達と同程度だ。とても「絵を描いてます」とか言えるレベルじゃない。でも近所の文房具屋でペン軸とペン先(丸ペンとGペン)と黒インキを買った。画材屋が放課後のお気に入りの場所になった。漫画は無理なので(ストーリーが作れない)、基本的には絵だけ描いていた。とはいえ、その頃にはもう人に見せるでもなく、デッサンやパースも何も勉強しなかったので永遠に落書きレベルに甘んじていた。結局、自分の思うような絵が描けなくてやめた。練習しないのだから当たり前だ。当時SNSがなくて良かったとほんとうに思う。
だから描いて描いて、めきめきと画力を上げていく藤野が本当に眩しかった。
今は何も描いてない。ペン軸とペン先はまだ実家にあるだろうか。
ただ、代わりに最近、まあいろいろあって、ネット上に時々クソ駄文を書くようになった。とはいえ別にクリエイターを気取るつもりは一切ない。自分はそっち側の人間にはなれないのだということは、とっくにわかっている。ただのごっこ遊びでしかない。藤野のような、上手くなる努力を何もしていないから、本来なら人様に見せるべきでないようなひどいクオリティのままだ。
だけど、きっかけのひとつに、何人かの方の背中があった。
追いつける気はしないし追いつこうとも思わない。でも彼らの「背中を見る」ことは確かに、自分のモチベーションのひとつになっている。
そして、ごくごくたまに、面白かった、と言ってくれる奇特な人が現れる(ありがとうございます)。その瞬間の自分の気持ちは、まさにあの卒業式の日、雨の中を小躍りしていた藤野そのものだ。いい年して、もう本当にあんな感じなのだ。なかでも、自分が背中を見続けていた人の一人からそれを言われたときにはもう死んでもいいと思った。
だから藤野も自分が憧れていた京本からのフィードバックに本当に救われたと思う。フィードバックは2度ある。卒業式の日の「ファンです」責め。そしてドアの隙間から出てきた『背中を見て』の4コマ。背中を見ていた人がこっちを見てくれた。一方向だったベクトルが一瞬双方向になった。しかも、2度目は言葉ではなく、互いの「作品」でそれをやってるのだ。本当にすごい構造で惚れ惚れする。
この作品をきっかけに、また誰かが彼らの背中を見て何かを作り続けてくれると良いなと思うし、自分も、僭越ながらも駄文を書き続けたいと思う。
「描き続ける」。キャッチコピーがそのまま、あのEDに凝縮されていると感じた。
* * *
ちなみに映画館ふらふらと出て、少し悩んで、また戻って次の回のチケットその場で買ってもう一度見た。こういうことをやったのは2019年に『HELLO WORLD』を初めて見たとき以来だ。もっとも、普段は大体上映回数が減ってからレイトで観るのでやりたくてもできないというのが大きい。特典商法もたまには役に立つw
なお、タツキ先生の短編『さよなら絵梨』もすごいのでオススメです。
実はちょっとだけこの『ルックバック』に出てきた!!!
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-883167-1
藤野が京本を助けたシーン、
藤野が、京本が見た幻なのか。
それとも別の世界線なのか……
そこははっきりとわからなかったけれど、
藤野と京本が一緒に漫画を描き続けた日々は幻ではないはず。
藤野の中に確かにある。
いつも手を引いていた京本が、
今は藤野の背中を押しているのだろうな……
美しい。儚くも美しい。
原作は読破し、何回も読んだ本作だが映画になったことにより本当に美しい物語へと昇華された。藤野と京本の2人の友情、そして決断が何よりもこの作品のメインディッシュ。
細かいものもよく描かれていて、作画も申し分無し。
見たことない人でも音楽とストーリーのコンボで泣けること間違いなし。後半の展開も最高。「なんで藤野ちゃんは漫画を書いているの?」と言われたあとの画像達は本当に彼女の回答の一覧という感じで最後のシーンが漫画で読むよりも更に心にきた。
強烈な1時間だった。ここ数年で最も濃密な1時間と言って良いくらいに。ルックバック。みんなも前を向いて生きていこう、過去を見ても最後に振り向けば道は開いていくと改めて考えさせられた。本当に美しかった。語彙力が無くなるほど良かった。
@CINE8 LZ
開幕いきなり高カロリーの作画を見せつけられ、本編は背動アンド背動でずっと見飽きない画面が展開されていてすごく良かった。
普段観ているTV/劇場アニメとも異なるアニメーションを浴びた感覚がある。詳しい技術の話は全くわからないけど…
一応原作既読でストーリーはある程度分かってる状態で見たけど、キャラの細かい動き、演出、何より音楽がすごく良くて、原作をより深みのある作品にしてたしめちゃくちゃ感動した。原作が元々セリフなしのシーンが少なくない作品ではあるけど、今回の映画では所々でそういうシーンで動きをつけたり、音楽を加えたりしてた。その音楽がすごく良くて、藤野と京本の日々を映しながら音楽を流し、徐々に盛り上げていく、映画館の音響で見ることによって体全体にそれが伝わってきたし、感動がより大きくなった。キャラの動きとかも良くて、リアルな部分もあり、そして原作の絵の雰囲気をそのままにアニメにしてくれたのがとても良かった。タイトルに「ルックバック」=背中を見て、とあるように、この作品は様々な場面でキャラの背を描いてたのが印象的だった。一番最初、部屋で机に向かう藤野の背中を映して映画が始まることにもそれが表れてる。他にも、京本の服の背中に藤野がサインをしたこと、部屋から出て藤野と一緒に外に出た時に、手を引かれながら京本が見ていた藤野の背中などが描かれてた。「背中を見て(ルックバック)」が回収されるのは最後、亡くなった京本の部屋の前で、藤野が京本の描いた4コママンガを見つけた時のシーン。ここは少し不思議なシーンではあるけど、京本が描いた4コマが藤野に届くことによって、自分が京本を外から出さなければ京本が死ぬことはなかったという後悔する藤野が、再び絵を描き始めるきっかけになる、作中一番の名シーン。EDでもエンドロールでは藤野の背中が映されるけど、人の背中が見えるのはその人が前を向いてる時だから、藤野が再び前を向くことができたことを象徴する意味があるシーンとして、そしてこの作品全体を通じて、やっぱり「背中」を描くことがとても重要な意味を持ってたことが分かる場面だった。1時間があっという間に感じる位に素晴らしい作品だった。
絵に命が宿っている。
心にぽっかり空いた穴を埋めてくれる作品。
特定の人に刺さる。
海外でも高評価らしい。噂では例の京アニ事件を踏まえてタツキ先生が描いたかも、ともききました。私はアニメを見るときは、なぜこの作品が作られたのか、作者の気持ちは、映画にした人の考え・方針は、声優の演技の方針は、背景・音楽は、などなどいろいろ考えてしまう人間です。この作品は、そういう意味では「一般人を泣かせるための作品」に感じました。内容はキレイでよくできており、劇場で泣く人もいました(BGMが「ここ泣くところですよ!!!」と盛り上げてくるので)。
冒頭の鳥海山の作画がよかった。