ツツジ台に住む高校1年生の響裕太は、ある日目覚めると記憶喪失になっていた。
そして裕太は古いパソコンに映る『ハイパーエージェント・グリッドマン』と出会う。
グリッドマンは使命を果たせと語りかけ、裕太はその言葉の意味と記憶を探し始める。
突然の事に戸惑いつつも、クラスメイトの内海将や宝多六花、新条アカネたちに助けられながら毎日を送る裕太だった。が、
その平穏な日々は、突然現れた怪獣によって容易く踏みつぶされた――。
ウルトラマンがアニメになったらこんな感じなのかなと思った。特撮の戦闘シーンとはまた違う、アニメとしての良さがあった。戦闘シーン以外の雰囲気で、全体的に何ともいえない違和感があったような気がしたけど、終盤で作品の世界の秘密が明かされた時に成程なと思ったから、雰囲気づくりもうまかった作品だった。裕太の六花に対する片想いがどうなったのか気になる。
「SSSS.GRIDMAN」─甘くて不安定なアカネの世界の意味─ 感想と考察
https://llxyo.github.io/post/gridman/
新条アカネの心という狭いセカイの中で、彼女自身の存在がいっぱいいっぱいに肥大化していた。彼女の怒りやストレス、ナイーブさや未熟さ、自己中心さやわがままさといった自己と世界が分離できてないセカイの捉え方を、愛おしさたっぷりに言えば青春と呼び、はっきり言えば幼さとか子どもっぽさと呼ぶ。
そんな彼女の自尊心と自我が膨らみ続ければ、やがて15歳か16歳の小さな器では収まりきらなくなって、次第に自己と世界の間から整合性が失われてしまう。あるいは、その器・彼女自身が孤独に傷つけられて欠けてしまうと、自分自身という中身を器の中に保てなくなってしまう。
新条アカネは前者の素養もあるけれど、同時に孤独といった形で後者の原因もあったように思う。そして、自分の意思と現実世界が折り合いを付けられなくなって、彼女は自己と世界が分離されないセカイを、彼女自身の内側に作り出してしまったのだ。
そこは全てが思いのままのセカイ、みんな私を好きになる。そして、本来あるべき姿、あって欲しかった日々、ただただ楽しいだけで良いという幼さの詰まったセカイは、まさにアカネに幼い視野を表象であり、「日常」と呼ぶのだと思う。
裕太や六花たちは不思議な世界に迷い込む。アカネといつも以上に親密な日常をだらだらと過ごすだけの日々。うっとりとした熱にほだされてしまいそうになりながら、甘い夢に酩酊していく。
そう、はっと気づけば、これは夢なのだ。そして、裕太たちが覚醒して、現実へ帰らなくちゃと駆け出す。
だけど、束の間の夢は覚めてしまえば、アカネにはひたすら孤独で、空虚で、空しく届かないものが詰まった現実を目の当たりにさせられてしまう。
そんな夢が夢だと突きつけられた中で、この夢が現実であって欲しいと焦がれて固執し続けたせいで、アカネは却ってその夢の中から帰ってこれなくなってしまった。夢を現実だと自分に言い聞かせ続けて、夢を現実にするために不都合な事実を跳ねのけようとする。
「六花は私のこと嫌いになれないよ、私が六花のことそう設定したから」
自分がそう仕組んだのだからアカネ自身が一番その事実を良く知っているはずなのに、六花たちがこの世界が偽物だと気づいてもなお、アカネだけがこの世界で一緒にずっと楽しい日々を過ごそうよとせがみ続ける。
本当に救うべきなのは、この偽りの夢の世界に囚われた者たちではなく、理想と現実の狭間で溺れている新条アカネなのだ。
ヒーロー・裕太、人間・アンチ、そして怪獣・アカネという3人の幼さや子どもっぽさの象徴たる存在。
アンチの当初の何もなさや動物のような振る舞いはまるで自我のない赤ん坊のようだった。しかし、赤ん坊はやがて育っていく。そして、いつしか人の心を読んで人に合わせる、そんな優しさを育んでいた。怪獣として生まれた彼にとって、それは失敗作かもしれない。だけど、人間に近づきすぎたそれは既に人間の命を持っていた。
気付けば記憶喪失だった裕太は、世界の危機を前に「自分にだけできること」を追い求め、グリッドマンと一体になって戦い始めた。自分自身をヒーローに重ねるのは、何とも典型的な子どもの姿のようで微笑ましさすらある。自分を特別な存在だと信じ、大きな力で世界を変えてやると意気込む。稚拙だが、一方で果てしなく健全な姿である。
アカネの稚拙さは言うまでもない。その結果が、この作り物の世界。そして、その果てに、彼女は存在するだけで人の日常を奪ってしまう怪獣を生み出すことに終局する。不都合な現実をなかったことにするのだ。そして、それは他人の日常だけでなく、自らの日常すらも蝕む。他人との繫がりをも破壊して、孤独に孤独を重ねる。そうやって日常を壊すままに、彼女は裕太を刺してしまう。
だけど、人間には、人間だから、怪獣となったアカネのズタズタに切り裂かれた心の痛みも分かるんだ...。
だから、孤独の中で何も信じられなくなってしまったアカネを六花は追う。
そんな六花のことをアカネは関係ないと突き放そうとするけれど、六花は「私は友達だと思ってる、だから全然関係なくない。」と迫る。そこでアカネは言い放つ「六花は私の友達として設定されたんだ」という言葉は、六花へ向けた言葉以上に、自分に対して突き刺す言葉だった。自分が作った世界の中ですら、私は本質的には孤独な存在なんだという言葉の自傷のよう。
それでも、六花の「私はアカネの友達、それ以外に生まれてきた意味なんていらないよ」という返答と「アカネはどう思ってるの?」という問いがアカネが目を背けていたもう一つの事実を直視させる。空虚な偽物の世界かもしれないけど、それでも確かに六花たちとの満ち足りた記憶の断片もあって…、それで充分じゃんという思い。
だけど、そんな真人間みたいな感情、アレクシスは許さない。そして、今度はアカネ自身を怪獣にする。もう怪獣は作れない、もう誰かの日常を壊せないと言う彼女自身を、怪獣という日常を破壊する存在そのものに変えてしまう。
もう人ではないソレは永遠の孤独の存在に成り果ててしまう。EDで描かれるような六花と二人隣り合った日常は手に入らない。君と同じ景色も見れない、君の隣にもいられない、最後までこの世界にかろうじて私を繋ぎ止めてくれていた六花との繋がりも失ってしまう……。
怪獣が人間に戻る方法、幼い夢から覚める方法。
アカネ自身が神様として君臨する偽りの世界、イマジナリーな街はその心に収まってしまうほど狭いものにすぎない。そんな小さな理想の街は何もかもが自分の意のままで退屈だけど、狭い中でごちゃごちゃで自らコントロールもできない。そんなアカネだけの世界が、世界を破壊して、アカネ自身も壊してしまうアカネという怪獣を生んだのだ。
でも、だから、アカネは自分自身を飛び出した世界に、みんなのいる世界に羽ばたかなくちゃいけない。そして何よりも彼女の友達たちがこっちへ来いと手を引いてくれる。六花や裕太や内海が呼んでいるから、必要としてくれるからアカネは一緒に行かなくちゃいけない。
それに、大人も子どもも誰だって一人一人の存在だけど一人じゃない。だから、誰かが必要としてくれれば、二人の世界は繋がって、アカネの世界も広がっていく。そして、六花たち三人はアカネが設定して生み出した存在だからこそ、アカネが救われることを願っているのだ。
そして、そのためのグリッドマン同盟であり、アカネも含めた友だちという4人の繋がり。自分の心に収まらないような広い外側の世界、それは確かにままならなくて怖くなってしまう。だけど、その広い世界を生きていくための友達という存在であり、その友達と繋がるために広い世界に踏み出すのだ。
それに、自分が一方的に頼るだけじゃなくて、自分も誰かに頼られる。アカネの世界で言えば、「私のことを好きになってくれる」のだ。そんな繋がり合える世界こそが、アカネにとっての本当の居場所であり、退屈さとは無縁のままならないからこそ刺激的な日常が待っている。
怪獣と化したアレクシスケリヴとグリッドマンたちの戦い。それは怪獣と人間のせめぎ合いの最たる象徴として映り、また人間という存在の価値を浮き彫りにさせた。
限りない命を持つ怪獣が、その強大な力を持って人々の繋がりを断ち切り破壊する。その一方で、いつかは死んでしまう人間は弱い命を持っている。だからこそ、繋がりを求めることができて、破壊するのではなく、何かを生み出したり修復したりすることができる。
不完全な僕たちは自分たちの世界─それは自分自身の人生や、自分を取り巻く友達や仲間たちの存在─と繋がり合って、助け合って修復し合って生きていく。そんな人間の生き様を象徴した存在、僕らの友情の力を真価を教えてくれるのが、合体超人・グリッドマンだったのだ。
私たちはアカネという一つの心の中に生まれた二人、だから傍から見れば、同じ存在。そして、いつまでもどこまでも一緒で、互いに支え合って存在しているのだ。
だから、六花のアカネとずっと一緒にいたいという願いは、ずっと一緒にいるために叶ってはいけないのだ。アカネがきちんとこの世界から旅立って、現実のアカネに戻る。そうすることで、大きなアカネの中から小さなアカネは消え、大きなアカネの中で六花が生き続ける。二人が別々の存在ではなくて、二人が一人としていつまでも一緒に存在し続けられる。
一人が二人のままではいけない。この矛盾と同時にイマジナリーな世界を終わらせた時、アカネは夢から目を覚ませる。
グリッドマンユニバースのため再履修
特撮版にあまり精通しておらず、ニコニコのコメントをチラチラして知識を補完しつつ視聴した。
放送当時は予備知識何もなしで見ていた記憶があるので、TRIGGERの戦闘やべ~だとか、太ももやべ~みたいなことで頭を空っぽにして見ていた記憶があるが、DYNAZENONの知識や前述のコメントでの補足をチラチラしつつ見返していると、この設定はここに繋がってるんじゃない?だとか、このキャラはDYNAZENONに繋がってるのか~みたいなことを色々考えながら視聴できた気がする。
原作を知らないと唐突に感じる展開も、知識としてでも知っているとはえ~~~となれるので余裕があったら先に原作を履修するのも良いのかな~とは思いました。
もちろんアニメーションとしても物凄い作品でした。
あかねはメンヘラの神様
原作知らなくても面白かった
良作
【8/10】
単なる特撮ロボットアニメと侮ることなかれ!!
もともと特撮時代から知っているが、アニメからしか知らない層でもなんなく入れる仕様、キャラ、ストーリーもよくぞワンクールでここまで引き込まれる作品にしたなぁという感動。
特にラストシーンは素晴らしい演出でした。
特撮作品のグリッドマンは全く知らずに視聴した上、やや難解な描写も多く解釈が正しいか自信がないものの楽しめた。
これは全てを作り給うた神様と、作られた箱庭の世界で生きる人間達の物語。そしてその神様は箱庭の中で都合の良いように世界を設定するが、それで渇きが満たされるかといえばそんなこともなく。
自分の手に負えないイレギュラーを排除しようとするもどんどん自分のやっていることが本当に求めたものなのかわからなくなり、自責の念も募っていく。そんな中で自分が設計した一人形に過ぎない少女が自分のことを友達だと言う。自分を好きになるように設計したのだから当然だが、それを神様はどう思ったか…。
アカネにはアカネの、六花達には六花達の世界がある。それはそうだが、アカネが作った箱庭の世界であっても人は人で、アカネ以外を好きになる人もいれば、全てを知った上で「一緒にいたい」と言ってくれる人もいる。そこが(アカネにとっては)どうにもできないところで、同時に最後にアカネが"覚醒"する原因にもなった感動的なところなのかなと。
最終回の最後の実写描写はとても示唆的だと思った。
あと大筋以外で好きなところを挙げると、この作品全体を通して本当にキャラクターが実在しているかのような"空気感"が巧みだと思った。間の取り方やガヤなどでリアル高校生感を上手いこと生み出しているのかなと。
響君の元の人格やアンチ君がどうなったか等、まだまだ気になるところが残ったまま終わったものの、この物語の主軸を「新条アカネの世界」として捉えるなら綺麗に終わったようにも思う。
滅多に見ないものの、たまにあると嬉しくなるようなそんな作品でした。
世界観設定とビジュアルが最高だった。
特撮パートは園児・小学生の気持ちで楽しんで見れたし、日常パートはエロガキ目線でも楽しめる要素もあっておいしいところばかりだった。
ここまで魅せる特撮は今までになかった
特撮に興味がなくても圧倒的キャラのかわいさから見入ってしまう。
作風が特殊な感じで良かった
設定含めて良かったけどグリッドマンがちょっと痛かったかな
途中から原作である特撮版を見はじめたので、結末に違和感を覚えなかった。「夢オチ」で「忍殺」で「グレンラガン」で「実写パートがエヴァンゲリオン」で、といろいろ言われているけど、最初から最後まで面白かったなと。
心象世界であることを誤魔化したトリックの数々は「勉強になります!」って感じ。
いま2周めに入ってますが、もう1週目とはぜんぜん違う話に思えるわ。
別バージョンに差し替えられてるんじゃないかっていうくらいに。
ほぼネタバレだし、12話の感想です。
2話にしてクラスメイトが怪獣の元凶であることが明かされる。
豪邸の一室を汚部屋化し怪獣に囲まれ、カーテン閉め切ってPCの前で生活しているというわかりやすい病み具合。
扉を廊下から映した画面を見たときに、金八先生(兼末健次郎編)の衝撃が思い起こされた。
彼女は倒すべき敵ではなく、あの部屋から救い出す対象で、これはそういう戦いなのだと。
この一点を丁寧に積み上げ、見事に着地させてくれたことに感動。そして感謝。
現実に心を引き裂かれる悲鳴の代弁が共感された時代から、
現実をシャットアウトした世界で無邪気に遊ぶことで、自分の心を守るためのアニメが多い。
だって、本当は自分は一人だし、心を壊される恐怖は変わらない。
外で戦えなんてそんなお説教は誰も聞きたくない。
作家が「キャラクターが勝手に動き出す」というのを目にする。
自分の作った世界の中でなら、気に入らないもの、辛い日常は怪獣が壊して作り直してくれる。
何度もやり直しているうちに、六花という理想のキャラクターを生み出した。
心地よい距離間で、素の自分を出せ、自分の意思を持っていて、間違ったときには叱ってくれる。
そして最後は味方になってくれる。そんな親友。
彼女を中心に「キャラクターが勝手に動き出した」ようにも見える。
物語の登場人物は全員が作家の一部だと聞いたことがある。
世界の修繕を阻まれたアカネは、六花たちと対峙しなければならなくなる。
これは自分と向き合うことでもあったのではないか。
最終的には自ら生み出したキャラクターから気づかされ、励まされ、
自分の意思で外にでて戦っていくことを決意するという流れに、私の涙腺が決壊した。
自分の理想だと思っていた世界で孤独を深めていた彼女が求めたのが六花であったが、
それは正面から向き合ってくれる他者であり、これまで排除してきたキャラクターも自分が向きあわなかった自分だったかもしれないと気付いたのではないだろうか。
残念ながら私は25年前のグリッドマンを知らないが、今回の復活劇には感慨深い気持ちになった。
ヒーローものを卒業し、彼らを忘れてしまった後も、ずっと世界を守り続けていてくれたということ。
そして、大人になっても、逃げたり、ウジウジしている自分を、また救いに来てくれるんだということ。
ヒーローになれるのは、運命だとあきらめず、自分の意思で勇気を出して行動する少年少女であることは変わらないのだけれど、
そんな素敵なヒーローたちが今でも戦ってくれていると思うと、少し勇気がもらえた。
アレクシスさんのやっていることはキュゥべえでと同じであり、そのまま私たちのことでもある。
数多くの美少女の情念を食らって自分の空っぽの心を満たし、
もうここには何もないと次々アニメを渡り歩く我々は、アレクシスさんのことをとやかく言えるのだろうか。
我々が不足感を満たすために使い捨ててきたキャラの中にも、助けを求めていた人はいたのではないだろうか。
アカネくんのように彼らと向き合えていただろうか。
たまにはそういう反省をしつつ、内部崩壊をおこしたり、正義のミカタにぶん殴られないといけないね。