この物語の舞台となる見伏市、そこは所謂「ムラ」だった。製鉄工場の事故をきっかけに外へ出る手段を失い、閉鎖感と停滞感だけで満たされた世界。そんな街の異常は神なる山を削った罰であり、変わらない世界と同じように人々は自分たちもまた変わってはいけないという、ある種の戒律に支配されていた。
この「ムラ」的な空気感は、人の心の弱さが滲み出たものとして感じられた。それは例えるならば、田舎の偏屈な親にとって、自分の子どもなんてものはいくつになってもただの子どもに過ぎず、いつまでも未熟で何もできない存在として扱うような、そういった類の精神が滲出したもののように見えていた。
そして、そういった種類のめくるめく変化し続ける現実に対応できない大人は、「オトナ」と「コドモ」とか「オンナ」と「オトコ」といった誰でも理解できる単純な固定観念に頼りながら、自分の生きる世界を自分の理解とコントロールが及ぶ小さな範囲に縛り付けようとした。その結果がこの見伏というムラであり、後に明らかになるような姿のまぼろし世界なのだと思う。それ故に、佐上の父がやたらと五実のことを「オンナ」とか「神の子」と呼ぶのも、五実という個の存在の複雑さ・難解さを嫌って、単純な概念で理解を済ませようとする「ムラ」の精神性をまさに表しているように見えていた。
さらに、付け加えるならば、佐上の父が見伏神社の当主として祀る神というのも、概して「ムラ社会」のアイデンティティを支える象徴となるものである。そして、古来からのこととして、自然世界の不条理に直面した人類が弱気な心のままに世界を単純化した概念が「神」であることを思うと、佐上の父がこの「まぼろしのムラ」、「人の弱き心の具現化であるこの世界」を守ろうとする中心人物であることにも、より納得がいくように思える。
しかし、人というのは、そんなムラ人たちが考えるような単純なものではなく、それぞれに個別の心があり、中には変わりたいと願う者も少なくない。正宗たちが外に出たいと思ったり、モヤモヤとしながらも睦実に対する恋心を芽生えさせたりするのも、まさにそういった変化の意思である。
しかし、人の心はアンビバレントに複雑でもある。例えば、園部は正宗に恋心を抱いていたが、それがみんなにバレてしまった時に、園部の心の反応は恥ずかしくて誤魔化したいという感情として表れた。最初は正宗との関係を進めたいと思っていたのに、恥ずかしいし隠したいという後ろ向きな感情に変わってしまった。それは、このまぼろし世界の文脈に則っていえば、変わりたいという気持ちが変わりたくないという気持ちに翻ってしまったということ。そして、そんなアンビバレントな心の葛藤の果てに園部の心はひび割れてしまい、その果てに神機狼に飲み込まれてしまったのだと思う。
それでも、正宗は変化を求めた。そして、その思いを貫いた末に、彼はまぼろし世界の外側に現実の世界が広がっていることに気付き、そして、その向こう側の世界には自分が睦実と結ばれて夫婦となった未来があるという現実を垣間見てしまう。さらに、兼ねてからの五実と睦実の容姿が似ているという疑問が、この瞬間に五実は自分と睦実との子どもであるという勘付きに結び付いた。
そして、そんな風に自分が変化を求めた果ての結果を知ったことで、正宗の中でますます変わりたいという思い、すなわち睦実との関係を変えたい進めたいという気持ちは加速していった。
その結果が、正宗から睦実への好きの告白だったように思う。それは、幻のように実体のない心の中の感情を現実の行動に起こしたということであり、そんな内なる好きを表に出した告白というのは、この物語の世界観の上では、まぼろし世界の中から外の現実世界へ飛び出そうとすることという意味合いを携える。だから、その告白の途端に、まぼろし世界と現実世界の間のひび割れは一気に広がっていったのだと思う。
しかし、その一方で、五実は正宗と睦実の二人を見ながら「イタイ」と涙を流す。なんだかそれは自分の親の馴れ初めを聞かされたり、自分が生まれた時の父と母の交わり合いを見てしまったりした時のような感覚だった。そして、そんな現実の事実として何も間違ってはないことを、ありのままの心では直視できないという共感を五実に抱いた。
そして、この場面を見ていると、ここまで恋を通じて描写されてきた「現実」、すなわちアンビバレントな葛藤を伴う変化に拒否反応を起こす五実は、まるで人の心そのものを表した存在に思えてくるようだった。さらに、五実が現実世界からこのまぼろし世界に送られてきたという事実が明らかになると、耐え切れない現実から逃避した弱き人の心のシンボルとしての五実というキャラクターがいっそう鮮明になってきていた。
物語は展開を進め、正宗は亡き父の言葉を受けて、五実をまぼろし世界から現実世界に帰し、このまぼろしからすれば未来の時空にいる父母となった正宗と睦実の下へ彼女を送り届けることを決意する。そして、それは心を現実に追いつかせるということ、弱気で後ろ向きな心を未来という現実に向けて前進させることだった。
それでも、このまぼろし世界に留まりたがる五実であったが、確かにその気持ちも共感できる。「イタイ」が「一緒にいたい」を意味するのなら、変化は恐れて当然で自然なものであるし、そんな五実を正宗から攫った原の「その気持ち分かるよ」という呟きにもとめどなく感情移入できてしまうのだ。
だからこそ、男勝りに見えても実は乙女な心を持つ彼女が、新田に想いを寄せる様子には、好きだからこそ今の関係が変わるのが怖いという心理がありありと映し出されているように見えていた。原のこの恋心を実らせるには行動にしなくちゃいけないけれど、それでフラれてしまうくらいならば、うじうじと片想いを続けた方がずっといいというような姿は、矛盾せずにはいられない「人の心」の全部を説明しているようだった。
すると、「恋する衝動が世界を壊す」というこの作品のキャッチコピーも、そういった何かを叶えたい気持ちが、かえってその願いを現実にしようとする行動を阻むといった意味で解釈できるような気がしてくる。さらに言えば、「恋に始まる心の感情が現実世界を崩してまぼろし世界を作り上げてしまう」というような形で、この物語の展開そのものを言い表してるようにも思えてくる。
でも、一緒にいたいのなら、原と新田が最後には好きを言い合ったように、心の内の想いは現実に繋げなくてはいけない。うじうじしたまま想ってただけで終わってしまう恋のように、いずれ終わるまぼろし世界の中にいつまでもいてはいけない。そして、そう決意した心そのものを表すキャラクターが、五実を現実へ送り出そうとする正宗と睦実なのだと思う。二人は現実の世界には出られないけれど、現実に向けて変わりたいという自身の願いをやがて子となる五実に乗せていくことで、彼らはまぼろしの世界の中でも生の実感という現実の感覚を得られるのだと思う。
それに、そうやって想いを叶えるために後先考えずに行動してしまうことこそが、この物語における正しい意味での「恋する衝動が世界を壊す」なのだと思う。そして、だからこそ、そんな夢に焦がれるような衝動が、無垢な少年や少女が生まれ育った偏屈な田舎町の価値観を跳ねのけて、広がり開けた都会で新たな未来を形作っていく種になっていくということを、この物語は描いていたんだと私は感じ取った。
出オチっぽい設定だけど、手を変え品を変えと幅を広げながらストーリーに合わせて展開させていってて常に楽しかったです
ラッミスちゃんも萌え萌えでcvえーでさんがハマってる
2期も楽しみ
柄にもなく泣いてる堀さん、かわいい..........
かといって、宮村くんが味方してくれないからって堀さんが泣いちゃう気持ちもちゃんとわかるから、なんか感情移入できて胸がぎゅってなる
非常に難解奇異な物語で、最後の最後に何を言わんとしていたのかをようやく微かに理解することができたような…気がするといった作品だった。
私が出した結論としては、『パプリカ』というのは「夢の昇華のさせ方」を描いていたのだと思う。
一番分かりやすい表象が、粉川警部と彼が見ていた夢だったと思う。はじめ、粉川警部はある夢にうなされて、パプリカから治療を受けていた。その夢というのは、様々な映画の場面に飛び込むというもので、夢の最後の場面で粉川警部は夢の中のもう一人の自分自身を殺してしまい、中途半端なところで未完成に幕切れしてしまう。
まず、これは夢と現実の葛藤を示しているのだと思う。後に明らかになるように、粉川警部はまだ学生の17歳の頃、今は亡き友人と共に刑事と犯人が追う自主制作映画を撮っていた。そんな当時の粉川少年の夢は、間違いなく今のような刑事なんかではなく、映画監督のような映画の仕事だった。
そんな若かりし頃の夢と現在の現実の間に抱える葛藤。つまり、叶わなかった夢への後悔から目を逸らしたいという粉川警部の深層的な心が、映画の夢で自分自身を殺すという形で表象されていたのだと思う。そして、そんな葛藤が粉川警部にこの映画の悪夢を見せていたように見えていた。
しかし、物語の終盤で、粉川警部は例の中途半端に途切れた夢を完成させることができた。そして、今は亡き映画仲間の友人が、警部に向かって「嘘から出た真だ」と言い、かつて撮った映画の役の刑事に実際になったことを肯定してくれた。その二つを受けて、粉川警部もどこか救われたような気持ちを携えることができた。ここに『パプリカ』が描いた「夢の昇華のさせ方」があったように私は思う。
そんな粉川警部の「夢の昇華」を噛み砕いてみると、「夢と現実の反転」というのが見えてくる。粉川警部の最初の夢は映画の仕事であったが、後から現実の結果である刑事の仕事を私の夢だったのだとすり替えている。これを情けないと取るかは置いておいて、この「現実と夢の揺らぎ」が「夢の昇華のさせ方」の正体であるように思う。粉川警部の例のように、後悔をポジティブに変化させること自体は「夢の昇華」ではなく、あくまでも「夢と現実の反転」に付随するものに過ぎないのだと思う。
別の例を挙げると、千葉敦子とパプリカという存在のように、現実の人物の分身的なものとして夢の中の存在が写し出されているという描写がある。また別の例としては、クライマックスの場面で夢と現実の街が繋がってしまい、夢が現実を侵食しにくるという場面。
これらはまさに、「夢と現実のどちらが本当の実体なのか曖昧になってしまった揺らぎ」を描写しているように見えていた。そして、その「夢と現実の揺らぎ」は、夢という理想を掲げる自分と現在の現実の自分との間にあるギャップに対する葛藤を示しているのだと思う。
そして、その「揺らぎ」という葛藤を経て、粉川警部の例のように現実が夢となる。あるいは、なんとか丸く収まったこの物語の結末とは逆に、夢で現実を読み込もうとする理事長の企みが成功してしまったifのバッドエンドとして、夢が現実になるということもあり得るだろう。
ともかく、夢と現実のどちらが本物になるのかという葛藤をせめぎ合いの果てに、夢もしくは現実が本物となっていく過程と結果が、つまるところの「夢の昇華のさせ方」を意味していると私は結論付けた。結果がいかなるものだろうと構わないのだが、夢と現実の狭間でもがいた末に結果を出す様は、この『パプリカ』という物語のように実に劇的で人を惹き込むような人生であるのだろう。
それに、結果がいかなるものだろうと構わないと言ったが、別に夢も決して現実を蝕む悪いものばかりではない。悪役として描かれた理事長の台詞ではあるが、「非人間的な科学や現実から人間に残された人間的な聖域の部分、それをを守る隠れ家が夢である」というのは全くその通りだと思う。そして、夢に人間的な要素があるから、現実と夢を突き合わせて出力する時に、魅惑的な人生も生まれるのだと思う。
また、最後の最後に一つ付け加えるとすれば、一番最後の場面でパプリカが警部に勧めた「夢見る子供たち」という映画。あれも夢を抱き、これからの現実を生きていく子どもたちが人生をいかに生きて、いかに夢と現実をせめぎ合わせ、どんな人生を残すのかという含意を勝手ながら汲み取ったような気にさせられるものだった。
結論から言うと、この『パーフェクトブルー』という作品は、アイドルから女優へと転身した未麻のアイデンティティを描いた物語だったように私は思う。
物語は前述のように、アイドル・みまりんが女優へとキャリアを乗り換えるところから始まる。しかし、それをファンのみんなに告げるステージで、場を乱す乱闘騒ぎが起き、それをとあるファンが止めた。そのファンの彼は、暴徒からアイドル・みまりんを救ったヒーローだという誇りやアイデンティティを得た。それもまた、この物語の裏のきっかけとして描写されていたように思う。
そして、話題の焦点を再び未麻に当て直す。彼女は新しく女優としての仕事を頑張るものの、どこかでアイドルのキャリアを離れたことへの気持ちの引っ掛かりがあるように映し出されていた。それは、アイドルを夢見た初心のせいか、それともアイドル・みまりんを求めるファンの声のせいか…。
しかし、いずれにせよ、女優であることにどこか疑問を感じ始めていた未麻の心は、レイプシーンの撮影で決定的な不和を起こしてしまったように見えた。レイプシーンなんてものはアイドル・みまりんの死の象徴であり、彼女自身も単純に受け入れがたいという本心もある。しかし、一方では、女優として演じなきゃという思いもあり、周りの人を心配させないためにも「何ともない」と言いたげなケロっとした表情を作らざるを得ない。そんなちぐはぐに相反した感情の狭間で、未麻の心は押し潰されて、ぐちゃっと二つに分裂してしまったように見えていた。
その頃から未麻の前に、もう一人の未麻が現れるようになった。アイドル・みまりんの姿をしたそれは、亡霊のようにふわふわと未麻の前に現れて、現在の女優になった未麻のことを「穢れてしまった」と言い指す。そして、現在の未麻にとって、その「穢れてしまった」ということは、まさに心の奥で自覚しながらも、気付かないフリをして押し潰した感情だった。
だから、それをわざわざ指摘されることは、未麻にとって、女優になったことへの後悔や自責の念を搔き立てるものだったのだ。そして、何よりも幻影の未麻というもう一人の自分に、女優としての自分に対するヘイトを煽られたことは、未麻の心を余計に分裂せと加速させていくようだった。
しかし、現実は現実であり、バカみたいな幻影にいつまでも振り回されているわけにもいかない。だから、そんな女優業に対する戸惑いを感じる程に、未麻はそんな戸惑いを忘れようとして女優業へ専念し、ヌード撮影の仕事さえも受けてしまう。どこで歯車が狂ってしまったのか。もう未麻は本心で自分が女優をやりたくないと思う程に、女優業に打ち込んでいくスパイラルに陥っていたように見えていた。
そして、そんな風に未麻が葛藤する裏で、最初に未麻のステージを救ったとあるファンが動いていた。
彼はアイドルとしての未麻に異様に執着し、女優としての未麻を疎んでいた。それ故に、彼は未麻の女優現場で爆弾事件や殺人事件を起こして、未麻に女優を辞めさせようとしていく。しかし、それならまだ可愛いもので、彼は「未麻の部屋」というWebサイトにストーキングした未麻の行動を書き連ねていく。これこそが問題で、彼は次第に自分の理想の未麻の行動を織り交ぜていくことで、徐々に「現実の未麻」を「想像の理想の未麻」で上書きしようとしていく。
そして、その彼の行動は、幻影の未麻と共に、この世界が本当に現実なのかと未麻を倒錯させていく。その現れとして、未麻が自分の手でヌードを撮影したカメラマンを惨殺する夢を見てしまうことや、自分がドラマの役を演じているのかそれとも実際の自分なのか曖昧になってしまうことに繋がっていっていたのだと思う。
その果てに、最後、幻影の未麻が本物の未麻を殺しに来る場面は、まさしく虚構の未麻で現実の未麻を上書きしようというものだった。
もうその時点で未麻は、夢の中の夢の中の夢……を見続けている始末。それは、もはや自分が現実にいる現実の存在なのか、それとも夢という虚構の中の虚構の存在なのかも曖昧な倒錯状態に陥ってしまっているように見えていた。そして、それが意味することこそ、アイデンティティの崩壊なのだと思う。
自分は現実なのか虚構なのかと惑わされる中で、未麻のアイデンティティは脆くさせられてしまった。この自分自身が本物の未麻なのか、それとも幻影の未麻が本物の未麻なのか。そして、自分はアイドルに戻りたいのか、女優を極めたいのか。そんな風に未麻は自分自身を見失ってしまっていたように見えていた。
そして、そんな心の迷いに、幻影の未麻が付け込んで、現実という場所から現実で本物の未麻を追い出そうとする。ファンが理想として夢想するアイドル・みまりん。その姿をした幻影が、現実の女優・未麻を消し去ろうとする。それが、未麻のアイデンティティの崩壊なのだ。
そんな風に自分が誰なのか、何なのかというアイデンティティを描いていたのだと思う。
それはアイドルにとってのファンのように、他人の声に流されて決めたり、他人からの評価によって定めたりするものではない。もちろん、「あんな風になりたい」「こんな風になりたい」と想像してもいいけれど、現実の現在の自分の立ち位置をよく分かった上で、目指すべき未だ虚構の自分を見据えなければならないということなのだと思う。
さもなければ、未麻のように現実と虚構の間で、自分にも他人にも翻弄されて、自分が実体のない存在になりかけてしまうのかもしれない。そんなメッセージが、この『パーフェクトブルー』なのだと私は思う。
挑戦的な新シリーズは衝撃的で、今までのキラキラしたバンドリの世界はどこにもありませんでした。
だけど、荒んだ人間関係の中でももがきながら、「迷子でも進む」をスローガンになんとか一緒に繋がっていようとするMyGOたちは誰にでも寄り添ってくれるような物語だったように思えるものだった。戸山香澄のキラキラだけでは救えないものを、高松燈や千早愛音は救ってくれた。
「弱い私はもう死にました」と言い捨てる祥子の新たなバンドは、『Ave Mujica』
「焦りや後悔はここに置いて、舞台に上がれば、頼れるものは我が身一つ」という言葉に、素顔を隠すためのマスクは、祥子の心の影を表しているようだった。そして、CRYCHICを捨てるに至った己の弱さを自分から切り離し、なかったことにしたがるかのような逃避的な姿が、今の祥子のように見えていた。
そこで、舞台の上で作り出した『Ave Mujica』は、彼女たちが「かりそめの命を宿した人形」と言い表すように、どこか脆さを感じさせるものでもあった。だけど、そんな脆さを感じる分だけ、もう弱い頃の自分ではなく、刺々しくより強い自分であろうという気概も感じさせるようだった。
だから、『Ave Mujica』の世界観とは、祥子の弱さを握り潰すための強気な心の爆発なのだと思うのだ。まさしく、家に帰って開口一番、「ただいま、クソ親父」と言い放つような荒々しさで。