サービス開始日: 2021-05-02 (1300日目)
グリッドマンは陽キャのアニメだが、ダイナゼノンは陰キャのアニメ―どこかでそう読んだ。観てみると、想像以上に陰キャのアニメだった。登場人物たちはみな心に暗い部分を持っている。みな過去に問題を抱え、それを引きずっているのである。
この陰キャたちに対し、過去のしがらみからの解放、自由を象徴するのが怪獣であり、怪獣優生思想である。陰キャたちには怪獣優生思想に従い、過去から解放される道もあったのだが、その道は選ばなかった。結局、現実が不自由なものであったとしても、受け入れるしかない。最終回で蓬が夢芽に言っていたように、たとえば行きたくない学校の文化祭という不自由な現実にも「うまくやっていく」「合わせていく」しかないのだ。
ただし、不自由な現実も、自ら積極的に引き受けていくなら、「自由を失う」という悲しいものではなく、「かけがえのない不自由を、これから手に入れていく」と言えるものになる。
腕にできた傷について、夢芽が蓬に「ずっと消えない傷になるといい」と言ったように、陰キャたちは傷を消すのではなく、傷を受け入れて、これからも生きていくのだろう。
つまずいたら、もっと強くなれる。
「瑠夏ちゃん、私、守りたい。守ってくれた、ずっとお姉ちゃんが、みんなが、私の『想い』を。だから私は私でいられた」「守りたい。みんなが、お姉ちゃんが大切にしてくれた『想い』を。私は守りたい」
他人を優先するあまり、自分の「想い」に蓋をしていた陽桜莉が、「自分の『想い』だって大切にしてほしい」という瑠夏の言葉をきっかけに、自分の「想い」に向き合い始める。振り返れば、過去に「想い」に蓋をしそうになったとき、いつも姉は「想い」に寄り添ってくれた。自分の「想い」が守られたように、今度は他者の「想い」を守ることを陽桜莉は決意し、迷いと決別する。
自らの「想い」を自覚した陽桜莉から、蓋をされていた涙が流れ出す。かつて「想い」に寄り添ってくれた姉はいないが、寄り添ってくれる瑠夏という存在がいる。美しいシーンである。
「想い」を抜かれて「自分がどこにもいない」少女との対比も合わせて、最後の陽桜莉の決意に至るストーリーの構成が見事だった。次回も楽しみ。
「この雨は嬉し涙なんじゃないかな」「二人はきっと会える」という回想シーンの使い方、陽桜莉が短冊に何を書いたのか見せずにおいて、最後に見せる展開のさせ方が憎い。こんな願いの叶い方は嫌だ。
「想い」が抜かれることで救われるのなら、「想い」が抜かれるのを阻止するのは偽善なのか?重い問いが突きつけられ、ますます目が離せない。陽桜莉たちがこの問いにいつかNoと答えることを期待して、この物語の行く末を見守りたい。
すべては終わった/愛よ/希望よ/歓びよ/さらば/否/記憶にすらさらばと叫ばん
バイロンの詩からスタートした6話。
途中で七夕の短冊をキーに、ある少女の描写に切り替わる。この少女が誰なのかわからないまま物語が進むが、あまりに凄惨で救いのない少女の描写に、息をするのも忘れて画面に見入ってしまった。やがてこの少女が仁菜であることが判明する衝撃。救いのない日々を抜け出して手にした幸福も、長くは続かない。そして、冒頭のバイロンの詩の意味が明かされる。仁菜の絶望をよく描き切った傑作回。1話の伏線もつながってきて目の離せない展開で、次回も楽しみである。
すべては終わった/愛よ/希望よ/歓びよ/さらば/否/追憶にもさらばと叫ばん
「嫌いな自分を認め、受け入れて前へ進んでいくか、嫌いな自分を否定して消し去るか」という作品のテーマが見えてきた回。
「由紀姫」が打ち込んだ「さびしかった」という文字を都がなでる演出、「由紀姫」と都が画面越しに触れ合う演出が秀逸。
変身ヒロインモノのフォーマットを取りながら、そのフォーマットを破る決着を見せた脚本の妙に関心。1〜3話は微妙だと思って見ていたが、今後が楽しみになってきた。