何という結末。すげぇ。
醍醐は多宝丸と母親が死に、景光だけが生き残るという皮肉。多宝丸も景光も百鬼丸に人としての情けを掛けられて自らの過ちを悟った。鬼神に肉親を捧げて国を守るのは誤りで、人の力によって人の国を築いていくのが正道であるということだろう。
やはり百鬼丸が全てを取り戻せば最後の鬼神は滅びるという寸法だった。始めから景光がそこに気づいていれば醍醐の国が滅びることはなかったかもしれない。
手塚作品の名作と言われるだけのことはあると思う。
どろろも百鬼丸も、どう生きるべきかという同じ出発点に至る因果の道筋が実に見事に収束するあたり、すごいストーリーテリング。
陸奥と兵庫、母馬の最期があまりにも無惨。
奥方の言う通り、そもそも国を立て直すのに鬼神に頼ったのが間違いで、その報いが今来ているのだろう。
けれど、百鬼丸も根本は人であるはずで、引き戻せるのはどろろだけなのだろうなと。
戦国時代、生き抜くために複数の領主と取引きした農村もあるらしい。農民がただ戦の犠牲になるだけでなく、自立的な生き方を模索したのだと思う。農民は領主にとって資源であるから、徒に搾取収奪するだけでは国力を付けられない。だから、交渉の余地があるわけで、戦が始まりそうになると、国境近くの農村はどちらに着くかの判断をしたとか。
まさに、誰もが切実なサバイバルに晒された時代。
多宝丸達まで鬼神の手先に。
百鬼丸は体を取り戻す以外のことを考えられず、鬼神のような馬に乗り、殺戮に走る。
醍醐の奥方とどろろが鍵になりそうだけど。
国と個人の命、魂、人権を天秤にかけられるかという命題が投げかけられている。
いよいよ悲しき佳境に。
百鬼丸と多宝丸、どっちにも応援できない。
百鬼丸をかつて食い損ねた鬼神を倒せば、醍醐の災いも無くなる気がするんだけど。醍醐に災いを起こしている根源は鬼神の力だろうから。
三郎太と百鬼丸とでは戦いの年季が違った。
鵺を倒しても体が戻らないことで、醍醐の地獄堂に引き寄せられるように向かう百鬼丸。
どろろに食べ物を分け与えたり、話を聴きたがったり、人間らしさを育み始めたと思えた矢先に、鬼神のような修羅のような方向に。
え、青森の赤飯って甘いの?
神木流玄、そんなに松吾郎に惚れ込んでるのか。
清流も見に来た。
トゥイン暴走w
「俺は楽しみたいんや」って博多弁らしからぬ……
自分の演奏に100点付けるのは甘い気がする。
本番で弦切れるとテンション下がるんだけど、それを跳ね返す強いメンタルが必要。
激しい弾き方は普段からやってないとどこかで破綻しがち。結局練習でやってきたことをどれだけ出せるかだと思う。本番ならではの良い緊張感が引き出してくれる力もあるけど、それはそれ。
モニタースピーカーが2個必要なのか気になったので調べてみたら、大きな大会では独奏に2個使ってるみたい。正面に1個置くとマイクとのハウリングを起こしやすいようで、斜め前方に1個置く場合もあるっぽい。
峰田、結構使えるのな。とことんスケベだけど。
麗日さん、マーシャルアーツで戦闘力が付いてる上に、出久を信頼して判断力と行動力を発揮した。
心操くんはヒーロー科編入に相応しいよね。
今更気づいたけど、劇伴が結構シネマティックな方向性だなと。
出久は暴走した黒い触手っぽい個性が20%では使いこなせないことを理解したと。ていうか、まだMAX20%であの強さって末恐ろしいな。
コタツの罠に掛かるミリムかわいすぎかよw
ミリムのくしゃみでゴブタの刀が小太刀にw
リムル以外の名前を頑なに覚えないのも好き。
柚子胡椒ポテチ美味しそう。
やっぱミリムが来てからキャラのバランスが良くなった気がする。
「君の名は」アバンでわろたw
パパイアの目からビーム。
ローラはえらそうなのに嫌味が全くない。こういう性格描写は難しいと思うのだけど、見事。
人間と人魚、大人しい性格と気が強い性格とが入れ替わるというところに意義深さを感じた。違いを知り、互いに影響を与え合うという点でダイバーシティに繋がるかなと。
ローラは人間との関係性において、自分が人魚であるという点をこれまでより強く意識したかもしれない。
実は野生の象が殷代までは中原にもいたとか。
となると、今の雲南省あたりにこの時代にいてもおかしくない。楚の版図に近い。
王賁も蒙恬も歴史に名を残す将の器。騰の大抜擢は正しい。ココココうけるw
秦軍の抜きん出た強さは騎馬隊の機動力にあったと言われている。なぜなら、あぶみや鞍など馬具が発達していなかった時代に馬の扱いに長けていた北方騎馬民族と国境を接していたので500年の間に彼らの騎馬技術を秦の騎兵が吸収していたからだ。つまり、秦国内には騎馬を扱いが上手い人材が自ずと多い。このアドバンテージは戦において大きかった。
また、威力があって誰でも扱える弩弓を大量生産できたのも秦だと言われている。けど、この回では巨大な弩を魏が使ってきた。ただ、木の杭が石の城壁にそんな深く刺さるとは思えないw
桓齮は秦の統一戦争(函谷関の戦いよりも後、政が完全に実権を掌握してからの戦争)の序盤において大活躍した。が、台頭してきた李牧によって、肥下の戦いで大敗を喫する。因みに、李牧はこの函谷関の戦いでは史記に名前はなく、趙の総大将は龐煖としか記述はない。
リーチが無くてあっさり負けたチウ、完全にギャグ要員のように思えるけど、今後活躍しそう。
ザボエラの息子ザムザ、超魔生物……。すぐにドラゴンの騎士より強いのが出てくるのはどうなの。
ここでまさかのギャグ回。
天邪鬼は愉快犯的な妖だけど、厄介だなと。
まさかの祝言を上げそうになる展開、面白い作劇もさすが。
毘沙門天を信仰していたのは上杉家だけど、場所は越後方面かな。
百鬼丸は他者の感情を読み取れるようになってきた。
本当に出番がなかったw
エルフは管理者と敵対してると。
戦力的に敵サイドの方が圧倒的な感じ。
ユーゴーは強欲のスキルを使って虐殺者に成り果ててた。魔法無効化スキルを持つソフィアはかなりチートだし、勇者もまだそんな強くなさそうだし、人間サイドやばいな。
百鬼丸は育ての親の魂の温かさを覚えていた。
寿海との問答は、百鬼丸が何かを考える端緒を生む種ぐらいにはなったかのよう。
そして寿海の言う通り、百鬼丸が人であるためにどろろは大切な存在であり続けるという因果なんだろうなと。
一方、多宝丸は領民を守るためと言いつつ心が鬼神化していっているような。
サメ使いはイカレてるけど、イタチも所詮は野盗だなと。大金を手に入れて一旗上げるためなら何でもするっていう。野心はあっても理想がなくて小狡い。どろろの父親には理想があったけど狡さがなかった。農民足軽だった豊臣秀吉は、蜂須賀小六などの野伏集団を手下にすることで成り上がっていったので、野心と狡さはあったと思う。けど、辞世の歌に「浪華のことも夢のまた夢」とあるように国家経営の理想もあったのだと思う。それは信長や多くの武将達との関係の中で湧いてきたのかもしれない。
百鬼丸は蛾の鬼神との戦いで義足が壊れてまともに歩けなくなってたのか。
鬼神を倒したところで世の中は変わらない、か。
乱れた人の世は人によって社会全体を脱構築しなければ治らないってことかなと。
百鬼丸は鬼神を倒す以外のことを考えるのを避けている。まだ向き合えていない。
嫌なタイミングでイタチが現れた。
アジカンのOP、さすがに良い音だなぁ。
おっかちゃんとどろろの背中の模様を合わせると、野伏の頭領だった父親が隠した大金のありかが分かるって感じか。
領主は蛾の鬼神とグルだった。
最初に出てきた女の妖は死んだ寺の尼かな。でかい赤ん坊は寺で死んだ子供達の魂の集合体とか?
とにかくいろいろ訳ありなようで。
何という因果の歯車。
結局、多宝丸も母親も百鬼丸への申し訳なさを抱えながら、領国の安寧を取らざるを得ないという。
醍醐景光は領主の野心と領民の繁栄は一連托生という道理を語ったが、確かに戦国時代ならば一理ある。だが、国が疲弊していた頃、自らが朝倉義景などの大大名に下って家臣となる選択肢もあったかと。この時代、小領主の生存戦略が野心だけで成り立つとも思えない。
百鬼丸が己れを食らった鬼神を全て倒したとき、本当に醍醐の国は窮乏するのだろうか。むしろ、かつて国を窮乏させていたのが鬼神だとすれば、その鬼神を全て撃てば鬼神による災いは無くなるように思うのだけど。
いろいろと縁が集まってきた。
やはり醍醐景光は領民の安寧よりも天下への野心のために国を富ませたかったようだ。醍醐の国は今の福井あたりという設定かな。だとしたら、強大な朝倉義景が治めていた版図に入る。その朝倉もいずれは織田に飲み込まれる。
多宝丸は16年前に何があったかを知る必要があるだろう。そのために百鬼丸から何か聞き出そうとするのは当然。
百鬼丸は狐の鬼神を倒したようだけど、何を取り戻すだろうか。その前に醍醐景光が立ち塞がっているけども。
すごく良い演出。
それぞれが力を出し切って、雷先輩の長唄三味線の仕掛けから雪のリードまで。
梅子が気に入らなかったのは雪が最初から前に出なかったからかな。
AYGが4位って完全に男性審査員票ではw
コンクールとかって、観客の反応が結果に反映するわけじゃなくて、審査員の質と採点の合理性が全て。だから、特別賞みたいな枠が用意されてることが多い。独創性や可能性を感じさせる演奏に対する評価。
吹奏楽のコンクールでも、全国大会だと皆んな優勝目指してるから、優勝以外は何位でも涙流して悔しがる。
舞のチームは精鋭ゆえに我を出し過ぎて音がぶつかってたと。確かにソロ向きとオケ向きの演奏者っているよなぁと。
え、若葉ちゃん未成年?まじで!?