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東堂にも情けがある三輪がやはり善良でよい。



東堂は高田ちゃんとの脳内会議などクレバーかつイカれていて良い。





今回は特によく動く。
東堂は花御を威圧しながら普通に話すし知識量的にも実は普通の生徒ではないのか?
しかしマイクロ秒とは完全に人間の能力を超越している。いや呪力の制御の問題だから物理的制限は問題ではないのか。



ひなが喚く場面などややノリがあからさまに感じる部分もあったが、ピアノ好きとしてはなかなか美しくていい話だった。
伊座並さんが誠に綺麗でよい。



BLEACHで言う瞬鬨の様な肉体操作術はロマンがある。(他にも色々あったと思うが思い出せない、ギア2も同じ系列と言えばそうか)



女子編だがそんなに解像度は高くなかったかなという印象。ただ真希のかっこよさは良い。



東堂の話は魂の座の様な感じで面白い。(中世は心臓に意識が宿ると考えられた的な話)
呪骸の身体は純物理的なものではないのか?



東堂と趣味が合ってしまう虎杖。逕庭拳については純粋なパワーを求めるなら不要ということか?
三輪はじゅじゅさんぽより本編の方が可愛く見える。



虎杖が遂に復帰。
伏黒は最後だけでなく借りた武器の件も、かなり人を良く見ている。
メカ丸ってなんだ



よくある合宿回をやりつつも、侑の決心、歩夢に生まれる不安を丁寧に描いていて良い。
あの液体をまともな味にできる彼方はかなりの達人ではないか?



果林回…としてはちょっと弱かったかなという感じだが、ソロアイドルとしての在り方をはっきり示した回。ステージにはソロでという縛りによって、むしろグループアイドル的な関係性の力学を強化しているとも言えるかも知れない。



しずく回。自己表現については第5話でも扱っていたが、ここで重要なのは「演じる」という観点だ。
アイドルの文脈では、メディアアイドルの時代の演じるアイドルから、ライブアイドルの時代のそう生きるものとしてのアイドルへという歴史がある。アイドルコンテンツのリアリティショー化に伴って、アイドルは理想像を演じるのではなく自分自身の表現へと主軸を移した。(この点で演じるタイプのかすみが登場するのは理に適っている。)とはいえ演じる要素が消えた訳ではなく、「表立って演じる」事によりむしろ本人のパーソナリティが際立つという事態が発生した。これはかすみに典型的だし、しずくが最終的に白黒合わさった衣装になるのもそうした止揚的な解決と言えるだろう。
この回ではこうした文脈を踏まえつつ、演劇部というプロフィール、今までのキャラ立ちしない描写が一気に「桜坂しずく」へと結実している。



冒頭より彼方のお昼寝キャラが、努力家としてギャップを伴って深化される。遥が彼方の夜更かしを意識する場面も、ただ気にするのではなく背を向ける事で対立的な感情を示唆しており細かい。
遥のスクールアイドルを辞めるという選択は一見重すぎるが、つまりはそれだけ姉の存在が大きく、そしてその献身を重大に受け止めていたという事だ。そうするとただ家事を任せるというのでは解決としては弱く見えるが、ライバルとして、というのが重要なところだ。姉だから、妹だからと絶対化されていた片務的関係を無効にする力がその言葉にはある。ステージにおいて全てのアイドルは平等なのだ。(これは第3話の競争的アイドル批判にも繋がる。)



とても良い

この子の事情が気になって虹ヶ咲を観始めたと言っても過言ではないのだが、期待以上の非常に良い回だった。
トラウマを抱えた女の子がそれを解決してハッピーエンドというのはエロゲとかの方面で成立してラノベやアニメにも普及していった形式だと思うが、最近ではむしろトラウマを克服(=否定)せずにおくというのが批判的展開(要するに環境メタ)として現れてきている様に思う(私の知る限りそう解釈できるのはマギレコの水樹塁だけだが)。この回でもやはりそうした時代性への鋭い感性が働いていて、丁寧な心境の追跡と相俟って隙の無い完成度になっている。



とても良い

エマ回、そして果林加入。
「そんなキャラじゃない」キャラというのは要するに社会的なポジションな訳で、そこに嵌まる事で人は居場所を確保し、否定されない保証を得る。ではそれによって苦しめられている時どうすればいいかというと、その人自体の肯定しかない。「心をぽかぽかにしたい」という志と相俟ってエマの肯定はこの上なく強力だ。



冒頭、せつ菜がまだこのポジションに慣れていない様子がかわいい。
愛回だが、前回個人主義的な立場を採用したことの帰結としてグループアイドルという枠組みの危機が訪れているのもまた面白い。OPでは全員で一つのステージに立っているが、ここからどう展開するのか。



とても良い

この回、現代のアイドルについての物語としてあまりにも本質的だった。
「一つの色にまとまる」のではなく「やりたいこと」を貫いていい、というのは第2話の繰り返しだが、ここで新たに加わっているのは「ラブライブ」に象徴される競争的アイドル観だ。それに対して侑は「スクールアイドルがいて、ファンがいる。それでいいんじゃない?」とコミュニケーション的アイドル観を差し出す。『ゾンビランドサガ』では「昭和」「平成」によってメディアアイドル・ライブアイドルの対立を描いていたが、ここでは後者についてより詳しく、リアリティショー的な側面(モー娘。誕生時のエピソードやAKBの様々なイベントに典型的)とコミュニケーション的な側面(推し、推される関係)を対比させている。『ラブライブ』無印(サンシャインは未視聴なので分からないが)がリアリティショー的なアイドルを扱ってきた事を考えると、虹ヶ咲のこのテーマ性は正にその「次」として決定的なものだ。より広く言えば、新自由主義の箱庭としてのアイドル界の再現(アニメ化)を、個人主義的・社会民主主義的な何かへと向かう社会の動向に合わせて再編したと言えるだろう。
そしてこうしたテーマ性が上滑りする事なく、それぞれのキャラクターの心理を丁寧に描く中で紡がれている。驚くべき完成度である。



侑は自分がスクールアイドルになりたい訳ではないのか。そういえば第1話でもなりたいとは言っていなかったか、しかし話の雰囲気からするとちょっと意外だ。
「かわいいかすみんが引き立つからです!」への乾いた笑いなど歩夢のリアクションが結構冷たくて面白い。侑との「かわいい」の違いがはっきり描かれている様に見えるが今後のポイントになるのだろうか?



とても良い

穏やかな日常とそこに潜在する何者かへの憧れ、スクールアイドルの衝撃、そして喪失。侑のスクールアイドルに感じたときめきが非常に活き活きと描かれているからこそ、「なんてね」と笑うはあまりに切ない。藤津亮太が新海誠のテーマ性について「存在しないものの喪失感」と言っていたが、それと近い風情があると思う。歩夢もここで言葉を躊躇い、冒頭に出たかわいい服を見て「やっぱり言った方が…」といった顔、そしてマンションの前? でやっと「二人で始めようよ」と投げ掛ける。二人の内面の動きが非常に丁寧に描かれていて素晴らしい。(しかし歩夢が突然滑らかすぎる横ステップを踏むのはちょっと面白い)
作画はどこか顔に違和感を感じる場面もあるが、重要な芝居はきっちり決めていてそんなに気にはならないか。
ビッグサイトが校舎なのは何とも不思議だが、コロナ期間中で現実には立ち入りできないのが妙なリアリティ的何かを生んでいて面白い。



大して感謝もされず倫理もない仕事をするくらいなら他人の為に命を張る呪術師をやる、という選択をしたと考えると七海の選択は何とも高潔だ。
敵が人間だったとかで戦う意味を問われる展開はよくあるが、虎杖はそこで全く立ち止まったりはしない。改造人間は常識的に言えばもう殺すしかない訳で、それは殺す。だが考え続ける。これは我々の現実への向き合い方と近しく、故に「どうしよう」で立ち止まってしまう過去の諸作品と較べてリアリティがある。
一度アドバイスはしていたが両面宿儺は伏黒に随分期待するところがあるらしい。
今回はOP前など特にダイナミックで「アニメ的」な作画が光っていたと思う。「ぬるぬる動く」というよりこういう大胆な取捨選択をした作画の方が個人的には面白い。
教師が良い人っぽくなってたのだけはちょっとどうかと思うが。



順平普通に死んじゃった。結局真人の思惑としては両面宿儺に接近する為の手立てに過ぎなかったという事か。こういう共存する類の敵は何だかんだ主人公に甘くなりがちだが、両面宿儺はきっぱり断っていて威厳がある。



課外授業も兼ねて生徒にイレイナを探させるフラン。やはりこの世界の人々は「他人を利用した者勝ち」の精神を感じさせる。
魔女の武闘派な面が示唆されてきただけに、ただ好きだから魔法を使う人々へのイレイナの感動は深みがある。去り際イレイナは珍しく感傷的になっているが、それも要するに本当に本心で今まで訪れた国の中でこの国が一番好きだという事なのだろう。平坦な様で考えてみるとなかなか味わいのある話にも思える。
第3話といい臆病な女の子が妙にかわいい。



第3話で人間の話と書いたが正にそういうやばい女エピソードで良い。
記憶を代償にした呪いと言っていたが、王の自意識を維持させたのと繋がっていたりするのだろうか?



花、なかなかの不条理系である。最後の人々は燃やした花が原因なのか?(その割に折角描写した国の人々との同一性を示す描写がなさそうに見える)だとすれば焼却処分するのは何とも迂闊だ。
瓶、意味ありげでそうでもない描写が多い様な。前半のノリで行けばニノは絶望して死んでしまいました。おわり。なんだろうが、「命令、なら…」の僅かな表情の綻びに二人の信頼関係(奴隷関係を形骸化させた蜜月)を読み取っても良い気もする。ただ別れ際の薄い影などあからさまに不穏だし、物語と同じ結末が標準解なのだろう。
室内調度や食事の描写が丁寧で実在感があって良い。

キノの旅とよく比較されているが正直枠組みが近いだけでテーマ性はかなり違う様に思う。キノではそれぞれの国の制度に焦点が当たる事が多いが、イレイナは基本的に個々の人間を見ている。というか瓶の話の様に必ずしも国が明確でないので必然的に人が中心となる。制度は「なぜこうなってしまったのか」という面白みがある一方分かってしまえばそれで終わりだが、今生きている人間はそこに現在のドラマがある。差別化の必要があるとしたら(いやどう見ても違うでしょというのが私の気持ち)そういう部分になるだろうか。



順平への揺さぶりが物凄い。本当に仲間になるのか怪しくなってきた。
真人が子供、発展途上と位置付けられていたのがパワーバランスへの強い意識を感じられて良い。(一級でも頑張れば撃退できる、などとなると冒頭の数話で見せた圧倒的強者としての特級の意味が薄れるので)



魂は物であり何ら尊ぶにあたらない。清々しい唯物論的(反)倫理である。(まぁ機械論者として「見えないものを特別視しすぎ」というのは首肯できる)
順平はかなり純真らしく、無関心というのは実のところ人間への素朴な信頼と失望に起因すると言える。「嫌いな奴は好きに殺せ」「嫌いな奴は退かしておけ」順平はどちらを信じるのか? OP的には仲間になりそうだが。
真人戦を案外引っ張る。七海に奥の手がある様だが呪術は一人一種という訳ではないのか。ここで逃げられる様だと真人が小物っぽくなってしまう気もするが如何。



第1話の戦闘でも示唆されていたが、バトルロワイヤル方式の見習い試験といい魔法使いはかなりの武闘派であるらしい。今は平和であるにしろ魔女制度は戦時下で作られたものなのかもしれない。というか実際これくらい戦えれば近代化以前の戦争では重宝されたのだろう。
ご婦人に金貨を渡して証言を貰う場面は前回の親とフランの取引を髣髴とさせる。「地獄の沙汰も金次第」と言うのか、貨幣化が行き届いている世の中らしい。

イレイナ、物言いは偉そうだがなかなか世話焼きである。「一人じゃなければ駄目なんですよ」耳の痛い話だ。あと顔が良いまま悪い顔をするのも良い。
サヤの心理はちょっと追うのが難しい。頼み事をする為に部屋へ忍び込んで濫用した鍵を見せびらかすというのはどういう考えなんだろうか。単にお調子者というよりも、上の金銭の話も考えるとこの世界の一般人の心性としてマチズモ的な、強かに狡知を誇る習慣があるのかも知れない。



「そういう小さな絶望の積み重ねが人を大人にするのです」嫌な話だが良い言葉だ。
虎杖が相手が人間でしたという時にウジウジと厭戦的にならないのが良い。この辺り「どう死ぬか」と死を前提にしているのが効いている。



とても良い

箒と杖のクラシックな魔法世界。調薬から対人戦まで魔女の技能が幅広い。
優秀にして実直な人間が報われるのは良い事だ。「魔女になって旅をしたい」といっても修行の中で「認められたい」など転化した願いを見せるのも理想化された「天才」とは違う人間らしさがある。いやイレイナの中では魔女になる事は初めから旅に出るに足ると認められる為の前提条件だったのかもしれないが。
泣き出したイレイナに真っ先に魔法を見せるフランが生粋の魔法使いという感じで良い。会いたい人というのがイレイナだったとすると最初の「ロベッタの魔女とは違いますので」の言葉にも重みがある。異国に名が轟くほどの俊英が田舎の魔女の下らないプライドに潰される事などあってはならない、と一年もの暇を得て来たのだとすれば、あまりに感嘆すべき義侠心ではないか。



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