「私には世界より大切なものがいっぱいあるんだ」
これもまた世界の、「大きな物語」の話ではなく日常の物語なのだ。
昔を思い出す様なたきなの激情が映える。声の演技が素晴らしいAパート。
DAはより伝統があるから法治国家体制に優越するという訳でやはりガチガチの保守思想なのである。
晴れ着を着て喜ぶ千束はもうすぐ死ぬ人と言った風で切ない。
日常の終わり。
「分かりません」それは望むものが変わり始めている徴だ。しかしまだたきなは使命を全うする事と千束を助ける事の差に自覚的ではない。それ故、別れる二人は華々しいというよりも切ない。
「余分な話」って二人の関係の事…?
「たきなが来た日は桜が咲いてた」「あれから吉さんこないねぇ」たきなの話に繋がるのではなく吉松の方に意識が流れるのが(たきな視点で)寂しい場面である。
収支の改善によりミカがレコードを置いて喜んでいるのが地味に面白い。
徐々に明らかになる千束の出自。「才能を世界に届ける」というのは一致しているがその内容(使命)に合意がある訳ではないのだろうか? 信仰が重要な動機の様ではある。
今回でアラン機関がDA全体と敵対する訳ではないらしき事が見えてきたが、そうすると単に千束に才能を発揮させる為テロリストを誘導している事になる。それは異常すぎるのでもう少し背景がありそうなのだが…?
弱々しいがどこか元気を出そうとはしている「待ってます…」など、普段のトーンが安定している分揺らめく千束の声が印象的。
遂にハッキングを白状する胡桃。今のたきなは怒りはしないが、リコリス襲撃の遠因ともなった訳だから今後の倫理的葛藤は大きいかもしれない。
中間管理職の様な役回りになるロボ太。というか実体を曝したり家凸されたりしているがいいのか?
妙にロードキルが好きな真島。ロケット弾(パンツァーファウストIIIらしい)で吹き飛んでもピンピンしている。(そういえば地下鉄でも悪運がある的な事を言っていた。)
ゴム弾しか携帯していないのかと思ったがちゃんと実弾も持っている千束。アーマー越しに打撃武器の如く銃を撃ってダメージを与えるのが印象的。
この世界ではプロならドローンの対処は基本らしい。特注品だと落とされるのが地味に痛そう。
「この社長は何も知らないんだろうな」前話に書いた件を含めると尚更意味深長。
「すごいだろ」人形の様に利用されたサイボーグの件を経てのこの台詞は強烈だ。そしてそれは「本当だった」と言うたきなへのいわば返歌でもある。
三つ編みの日。
アバンのみはりが睨む場面は今回のラストを勘案すると、単に余裕こいているだけではなくクッキーの粗雑な扱いに対してのものでもあるかもしれない。
「贅沢は言うまい」と言いつつやはり男子流のコミュニケーションを求めるまひろ。
クソむかつく後任の女が出てくるが一話内でぶっとばされるのでまぁ耐えか。
フキも荒っぽいが「どこ中だコラァ」などに付き合ってくれて案外ノリが良い。
やや台詞の真意の読みづらい(というか声の情報量に画の芝居が追い付いていないと言うべきだろうか? 芝居も適当なアニメよりは全然豊かなのだが)千束だが「嬉しい嬉しい!」は純粋な表情に見えて印象的。
前話のゴムを撃つ場面がちゃんとここで回収される。飴も行きとの対比を呼び覚ますモチーフであり、この帰りの場面は特に構成の妙が詰め込まれている。
「急所を撃つのが仕事だったんですけど?」以前の自分を揶揄する様な冗談で、非常に過去の自分を客観視している。前話の意識改革の大きさが表れている場面。
千束の服のセンスが随分独特。「悪人にそんな気持ちにさせられるのはもっとむかつく」悪人を悪と信じてはいない事を滲ませる。「人探し」と言ったのとは裏腹にリコリスとの深い思想的乖離が窺われる。(第1話冒頭で語られる様にリコリスは犯罪者を存在から否定する過激な「悪を憎む」組織である。)たきなは段々とよく笑う様に。
殺しの才能などと言い出すアラン機関。第1話の先生のリアクションはそういう意味か。とは言え銃取引に関わっている件までは知らないだろうし、まだ更なる裏がある組織という事だろう。しかしそういえば胡桃は自分で関与しつつ写真の調査をしていたが、3時間前の取引の方は知らなかったのか? だがそちらの目撃者の追跡にも携わっていた筈だ。調査している振りなのかどうなのか。
銃乱射し爆破もする豪快なテロリスト。実際に走っているところを撃つと跳弾でとんでもない事になる?
当時けいおんに激似という件であまり正当に評価されなかった記憶があるが、早期の日常系的な手触りの作品として完成度は非常に高い。ポストアポカリプスというのはマクロなもの(イデオロギーであったり国家であったり)が滅びたという意味でミクロな日常を焦点化でき、後に『少女終末旅行』が出る様に相性が良い。尤も本作は国家が消滅するまでは行っておらず、むしろ戦争の現実との対比で日常の儚い美しさを謳っていると言うべきか。
あとキャラソンの「ねがいごとキミと」が単純に曲として非常に良い。
原作があまり刺さらなかったのだが、書店で見かけたPVが良かったので(というかアニメ映画だと知らなかった)鑑賞。
めちゃめちゃに泣いた。キャラクター的でないと全く読みが働かないのだと痛感し恥じ入るばかりである。ただこころの受ける虐めを非常に一貫した主題としている印象があり、原作よりも寄り添いやすい描き方になっている気もする。(原作の細部を覚えている訳ではないので印象論だが。)
まぁ弊害というか、原作だと萌はめちゃくちゃ美少女で目立ちまくり、まさに冒頭で語られるような救いを齎す転校生に合致する一方で、それ故に真田の「政治」にも利用されるという印象だったが、映画だととにかくこころが可愛いので逆転して見えるところもある。アニメ的キャラクターデザインの性か。
思い返してもどこが良かったというのが言い難く、全てがとにかく愛らしかった様に思える。こころの伏し目がちな表情、母親の道を開けて壁に沿う様子、将棋をするマサムネ、ウレシノの「乗り換え」を巡る様々な表情。序盤からそうした芝居が日常描写をそれ自体で楽しめるものとしている。
ヒントの置き方も丁寧で、ストロベリーティーの符合だとかちゃんと見ていれば察せられる様になっている。なお時間については原作だと確かショッピングモールがどうので話が喰い違うという件があったが、映画では記憶を受け取ったこころが気づく形となっている。オオカミ様は「お前次第」と言ったが、戻して欲しくて記憶を見せた様にも思われて切ない場面。
声の演技が実写的だったり、劇伴がやや大袈裟な気がするのは一般向けを意識してだろうか。すぐ慣れるから大した点ではないが。
原作はかなり純文学的で登場人物の容姿(キャラクター性と言えばまずは視覚的記号である)など碌に提示されないのだが、本作はその辺りを見事にアニメ的な読みに応える情報量で強化している。様々な思いやりの姿が描かれた名作である。
しかしこころが可愛かった。終幕後に配布特典のスライドショーがあったが、可愛すぎて妙な衝撃があった。
室崎みよが今時珍しい火力の百合女子である。
みよが「腐れ縁」と補足する場面はその直前の顔を動かす(まひろの方を向く)芝居と連続していて、本作の丁寧な芝居が1カット内の仕事に留まらないことが分かる。その後のもみじが嫉妬して自分のパフェを食べさせるカット、次のみよのカットも多様な表情と一つの表情で対照的ではあるが、どちらも非常に豊かな芝居になっている。
制服がちょっとぶかぶかに見えるがこういうデザインらしい。
着替えの場面など非常に男目線な一方で生理の詐称には釘を刺している。本作がラインをどこに置いているか垣間見える。
変と言うほどではないが、みよが飲み物を貰って飲むあたりはやや横顔の造形が戯画的(手塚漫画的)に見えて気になった。
衆目を集める場面でフラッシュバックイベント(引きこもり主人公作品に特有の挫折イベントである)があるかと思ったが、そこではなく補導員が来るという二段オチ。
美容師やかえでの胸の感触に喜びつつももみじと普通に胸の話をしているのが特に性自認の揺らぎが見えて印象的。
ヘアバンドして洗顔の様に他作品で見られない生活感のある描写が豊富で良い。
「寂しかった」とは言えず「うっさい…ばか」になってしまうのがかわいいところ。そこでみはりが即座に理解する訳ではないのも関係の対等さを感じて良い。(ここでみはりがすぐ「なるほど」という顔をする様だと完全にみはりが上という関係になってしまう。)
第1部を全部やるのかと思ったがそうではなかった。丁寧で良い。
マキマの声が意外に静か。
リアル調の? 画作りが原作の淡白な画風によるシュール感と似たものを上手く醸し出している様に感じる。
臓器も銃も金次第、勝てばよかろう夢バトル。なんと資本主義的で新自由主義的。ここまでだとまだ判明しないが、チェンソーマンの世界観(設定)は実は悪魔がいるというだけではなくなかなか過激で面白い。デンジの「普通の生活」の水準が徐々に上昇していくのも正に消費社会のイコンである。
マキマの迫力だけでなくコベニの四課っぽさ(まともじゃなさ)がよく描かれてた第9話が特に印象的か。
芝居も細かくはあるが少々演出意図がズレていると感じる部分もある。
例えば岸辺がパワーの上からの槍を受けるシーン(第10話)、原作では視認→刺されない為に破壊、という流れだがアニメでは避けた後に破壊、となっておりやや無駄に見える。
忘れたが他にも気になった箇所があったはず。
とはいえ直後のデンジへの後ろ回し蹴りは原作では突然繰り出されるものの、アニメでは岸辺の前にデンジの影が映るカットがあり、それを見て冷静に対処した事が仄めかされている。
気合が入っている事は間違いないだろう。
気にしてはいたが『戦う姫、働く少女』で扱われていたのをきっかけに視聴。
狼というファンタジーが子育ての困難を効果的に演出している。
雪が非常に社会的に自意識を作っていくのに対して雨がふと狩りに目覚めるのが印象的。
『竜とそばかすの姫』でも思ったが、細田守のSF的感性は止まっていても人間ドラマを描く力は素晴らしいものがある。
一期のシャルティア戦がめちゃくちゃに好きなのだが、そういう意味では派手な戦闘があまりなかったか。
狂愛、踊るラナー。個人的にもミュージカル風は好きだが、演出として嵌っていて素晴らしいシーン。
ラストだけでなく「幸せ」を語る部分といい、普通の人間のつもりでいつつ済し崩し的に「鞭」を国に適用し消すという異常性が特に印象的に描かれている。
「お姉ちゃん」には心の中でスタンディングオベーションである。
これの興味深いところはつまり我々(か知らないが少なくとも私)はまひろよりもみはり視点で物語を見ているという事だ。定点カメラの様な画角が象徴する様に、我々はまひろとなるというよりまひろを「見張」っている。まひろのフェティッシュな描写が多い事もそうだ。この作品はTSするというよりTSを見る物語なのである。
前話だったかもしれないが、みはりが非常に慈しむようにまひろを見るシーンが印象的。
教育番組の如く女子の日常生活を解説している。
思ったより下ネタ。
結構芝居が丁寧。彩りのある画面も良い。
タイトルは兄をもうやらないという意味なのか。単にTS物語という訳ではなく兄妹関係を批判的に解体する(滅びた言葉を使えば「脱構築する」)意思の表明という点で素晴らしい導入となっている。
貧困だの孤児だのを詰め込んだ前作が刺さりすぎたが、今作も素晴らしいのは間違いないと思う。(3.11にはあまり感情的なあれそれがなく、個人的な事情でより身近であった長野県北部地震の話を誰もしないのを見て絆だの何だのは結局欺瞞なのだと思った記憶がある)
鈴芽が自分のトラウマ治療をあくまでも自分自身で行うのが良くて、草太さんのお蔭で…などとやっていたらギャルゲの視点を替えただけという恐ろしい作品になっていただろう。
自分が死の恐怖を克服できないタイプの人間なので「生きるか死ぬかなんてただの運」と言い放つのも衝撃的だった。(それは鈴芽の心が常世に囚われているからこその台詞であったが)
あとRADWIMPSのMV的な作りが無くなったのも良い点。物語作家が他人の言葉を借りていては世話がない。
ただダイジンの扱いは気になるところ。この為に前作では非常に一貫していた自然中心主義の思想がブレている様に思えてならない。
因みに天皇制がどうのというのはただの妄言なのであまり真面目に聞く必要はない。自分の持つ問題系とその辺の流行っている作品との関連性を何とかこじつけるのが昔ながらの評論家式ルーティンなのだ。
ウォールナット救助回。
やはり芝居が豊かで良い。
火器の整った集団が「プロ寄りのアマ」と呼ばれているがPMCの真似事をしているチンピラということか。
ロボ太の「無駄だよォ~」のところは千束とたきなの台詞が聞こえた上でのものに見えたがそうではないのか?
千束がAKの連射を避ける場面、一度目はまだ射線を躱しているのが分かるが(尤も一度横切っているのだが)、二度目は真っ向から撃ち合っており超人的である。自分の方が早く着弾して弾を逸らせられると確信していたのかどうか、いや確かに後から撃ってはいる。
「僕の全て」など言っていて実は脳だけアタッシュケースに入っているのではと思ったが、そこまではなかった。30年以上活動歴があるようだが?
最後のシーン、たきなは単純に奇行に走ったように見えたが、上の撃ち合いの場面(しっかりたきなのリアクションも描かれている)を加味すると「なぜあれが避けられたのか?」を気にして撃ったのか。そうするとたきな側が驚くのも納得ができる。
隙の無いクオリティで観ていて安心感がある。
冒頭、ナショナリズム的とも言える平和礼賛は単純に「実情」とのコントラストを演出するものなのかもしれないが、やや護憲左派への皮肉にも聞こえて思想的にどの程度を射程としているか気になるところ。
千束は声と言い挙措表情といい元気溌溂だが、特に「リコリコへようこそ」の辺りなど芝居の良さを感じる。(この見切れ際までちゃんと芝居をしている、意図の籠った演出が為されているというのは富野監督が「板付きで始めない」と言っていたのを思い出す。)
ただ「そういう意味不明なところが私は好き」の辺りだけはやや含みのある声色で、これは後々パーソナリティに関わってくる発言なのか。
たきなも基本クール系とはいえ表情豊かで良い。最後千束に引っ張られている時など意外な緩み振りだが、リコリコ初仕事で千束をかなり認めたということだろうか。
「ありがとうって言われるのが好きなくせに心が無いとは何事だ!」そうこの洞察、感性こそ我々が物語を求める理由だ。
天沼矛は国生みの始まりを担った正真正銘の神器であり、夢の中、あの形態にせよ途轍もない所業である。日本神話モチーフと言えば草薙の剣が代表であり三種の神器すら他は名前が使われる程度なので、天沼矛を選びその事跡までも利用しているのは非常に面白い。
ウガルル召喚というのはマクロな意味での「町を守る」には関わらないのだが(ミカンが去ったとしても大局的には平和ではある)、それは桃の「シャミ子が笑顔になれるだけの ごくごく小さな街角だけど全力で守れたら」と同じように一人一人の為のミクロな「町を守る」ことにとっては一大事なのだ。「姉のやり方とちょっと似てきたよ」と言っている点からも、桜の「ついでにちょっとこの町を守ってみてよ」というのはきっとこういう意味なのだろう。
つまりこの作品はノリとしては日常系でありながら、またその日常を守る為のストーリーも備えているのであり、メタ日常系とも呼ぶことができる。
(ではウガルルのような者ではない、真に分かり合えない者と対峙せねばならなくなった時、それでも「日常系」として成立するのか。この点において、原作のもっと先の展開もまた最高に面白いのだ。)
シャミ子修行の回。これまでの話数でも全体的に原作よりサブキャラの出番が増えているが、この回では特に良子を可愛く見せるカットが多く入っている印象。
(客観的に見ると)かなり小さい理由で闇落ちしてしまう桃。名誉の失墜が留まるところをしらない。
シャミ子が魔力放射を使いこなしているのを見ると(杖の力もあるかも知れないが)最初の練習からの上達振りが目覚ましい。